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  • 執筆者の写真: rain
    rain
  • 2022年6月26日
  • 読了時間: 5分

・ダンマカ原作軸・地下組

・ダンマカワンライ用に投稿したお題『花』『祈り』のお話でした






「地上は今日も、晴天かな……」

 誰にともなくそう呟くと、クオンは遠く頭上に亀裂のように走る遠い空を見上げた。

 この、世界から隠された地に、白い朝などやってこない。頭上に広がるのは、深い川底に沿うように左右に高々と聳える断崖を縦横無尽に走る吊り橋の群れと、それに重なり連なりながら至る所に吊り下げられている錆びたランタンの残骸たちばかりだ。空は昔から変わらずに、遠くに細く、まるで天の川のようにして頭上に煌めいている。

 ここはそういう、谷底の街だった。

 谷間に射しこむ細々とした光を頼りに岩場のあちこちに生え茂った苔を踏みしめると、くしゃり、くしゃりと足元で命が死んでゆく音がする。その音にリズムを付けながら断崖に張り出した岩場を下り、板の朽ちた吊り橋をロープを頼りに渡り切り、対崖に掘られた横穴の奥に続く部屋をひとつひとつ見て回る。人の住んでいる気配など十の昔に風と共にどこかに流れて行ってしまって、今はただ、色褪せた食器棚やテーブルが、部屋のあるじたちの帰りを待ち侘びながら、だんだんと己の形を忘れ去ろうとしているのである。

 別に何か目的があって歩き回っているわけではないのだ。死に絶えた街をたまに隅々まで巡回し、人の匂いを肺いっぱいに吸い込みながら街が生き生きとしていた頃の残り香を確かめる。そうしなければ、ここがどこで、今がいつで、自分が誰なのかもわからなくなる時がある。

 何より怖いのは、過去が消えて無くなってしまうことで、この先自分たちがどうなるかではない。それに気付いてからというもの、この無駄とも思える徘徊が心を慰めてくれることに気付いて、クオンは独りで、断崖を上っては下り、下っては渡りして、過去の形を思い出そうと励むのだった。

 崖に張り出すようにして造られた階段をできるだけ下まで降り、そろそろ対崖へ戻ろうかと、クオンは谷底に張られた吊り橋に靴先を向ける。久しぶりに踏み込んだ橋板はぎしりと揺れ、朽ちた木目がぼろぼろと音を立てて端から欠けてゆく。

 もう一つ上の吊り橋を渡ればよかったか。そう思いながら見上げた景色の中で、微かに目を細めたクオンなどまるで世界に存在しないかのようにして、空は遥か遠くを水色の糸のように細くたなびいてゆくだけであった。

 数百年の昔は、夜になれば深い渓谷に無数に蝋燭の灯りが点り、本物の星のようにして頭上に輝いていた。その光景は空が見えないことなど気にもならないほどに輝かしく、荘厳な風景が広がっていた。断崖に掘られた家の入口には緑が植え込まれ、小さな横穴の窓には豪十の旗が揺れる。強風こそないものの、その白く潔白な旗に橙の灯りが無数に反射して輝くように揺れるのを、クオンは今でも覚えている。

 記憶の中の渓谷の街は、美しい場所だった。

 それが、今は見えない。

 ここはそういう、絶えた街になってしまったのだ。

「何か、………、流れてくる……」

 吊り橋の板目に足を取られないようにと下を覗き込んだ時だった。

 すぐ真下を流れる細流に乗って、何かの気配が近付いてきた。クオンは吊り橋の上からじっと目を凝らし、断崖のずっと奥、暗闇に閉ざされた上流を見つめた。

 最初に流れてきたのは、白だった。

 光の届かない小さな川はいつも黒々として流れているのに、その水面に、小さな小さな白い何かが揺れているのである。

 クオンはその白い何かから目を逸らさずに、ロープを手繰り寄せるようにして吊り橋を戻る。その間にも上流からは白い断片が流れてきては、クオンの目の前を通り過ぎてゆく。

 クオンは急いで靴を脱ぎ捨てると、膝下の浅い渓流を掻き分けるように水の中に飛び込んだ。飛び込んで、ざぶざぶと音を上げながら進み、後から後から流れてくる小さな白を掌に掬う。

「花……? 白い、花びら……」

 そう言葉に出した時、谷底に満ちた細い光を一身に集めるようにして、白い花が流れてきた。大きな花だった。バラだろうか。それともダリアだろうか。美しい花弁で誇らしげに水面に浮きながら、悠々とこちらに向かって流れてくる花を見て、クオンは気付けば微笑んでいた。

「ああ、そうか……」

 素足の膝元に流れ着いたそれを掬い上げると、そっと、今に崩れかけそうになっている花の外形に唇を付ける。

 きっと誰かが死んだのだ。

 悲しみを癒すためなのか、きっと誰かが、泣きながらこの花を川に流した。

 細々とした水面を遡った上流のどこかで、クオンの知らない場所で、きっと誰かが死んだのだ。そしてきっと、それを悲しんだ人が居た。だからクオンの元に、悲しみが流れ着いたのだ。

 いや、わからない。そんな気がしただけである。

本当は花嫁の花冠から零れ落ちた花かもしれないし、赤ん坊の揺り籠の傍に飾られていた花かもしれない。天空の孤城から舞い落ちて来た花かもしれないし、嵐に乗ってやってきた野生の花かもしれない。

 それでもクオンには、それが美しい祈りに思えた。

「悲しまなくていい。死はきっと、誰にとっても、喜ばしいことだから……」

 右手に花を湛えながら立ち尽くすクオンの膝元に小さな人形が流れ着いたのは、それからしばらく経って、冷たい水底に素足の指先が凍えそうに痛み始めた、その少し後であった。




「これはなんだ?」

 翌朝になって、薄暗い横穴の奥から男が姿を現した。

 暗い髪色の、陰鬱な目をした若い男である。

「昨日クオンさんが見つけて来たっスよ。どうも『上』から流れて来たらしくて――」

 従僕の言葉を耳の上に聞き流しながら、男は磨かれた硝子の水盆に浮かべられた花弁をそっと指先で突いた。まだ柔らかく、瑞々しい白はすぐに水に沈み、沈んだかと思えば息を吹き返したように水面に浮かび上がってくる。

 珍しいこともあるものだ。この忘れ去られた地下の街に、川上の濁流に耐えて花が流れ着くなどということは、記憶にある限り一度も無い。それとも自分が知らないだけで、暗い水面に沿って度々、世界の断片が流れ着いているとでもいうのだろうか。

 いずれにしろ――

「……地上に祈りは、まだある、か」

 白い花弁の浮き沈みをじっと見つめていた男の口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。



 これより百年の後、断崖の狭間に累々と広がる絶えた街に鮮やかな赤が流れ着く。

 その男の名を、リーベルという。

 忘れ去られた街を揺るがす、世界の断片である。 





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