キス
- rain
- 2023年5月31日
- 読了時間: 12分
喫煙表現あり
八乙女が被害者
「え~~~っユキじゃ~~~~~んっ!」
個室の扉を引き開けた途端に、甘ったれた甲高い声がユキの胸にダイブしてきた。
部屋の中にはむっとした熱気が篭っていた。酒飲みの集まりどもが醸し出す、浮ついた空気である。
「どうも、こんばんは。ユキだよ」
声の出所を探しながら、ユキは橙色に灯りの落ちた個室の中を見渡した。
それなりの広さの個室を貫く長テーブルに、個室居酒屋によくありがちな掘りごたつ。ジョッキや八タン、ワイングラスが木目のテーブルに所狭しと並べられ、その間をどうにか縫うようにして空になった皿や小鉢がいいだけ散りばめられている。
ざっと数えただけでも二十人は座っているのだろうか。集まっているのはバラエティの常連ばかりだった。最近グランプリで優勝した若手やベテラン芸人までさまざまで、そこに制作局のスタッフがぽつぽつ混ざって話し込んでいる。
「ユキなんで! どうしてぇっ!」
声に導かれて、ユキの視線は部屋の隅へと飛んだ。掘りごたつの奥の席に押し込められたモモが、片手を目一杯に伸ばしながら叫んでいたのである。
まるで悲劇のヒロインのような音色で大声をあげるので、特徴的な音がピンボールのように個室の壁に反射する。
本来ならば愛しのハニーに向かって微笑みたいところだったのだが、ユキは思わず眉根を寄せてしまった。
平日の終電間際といえども、渋谷に人足は多かった。この店にだってまだ客が大勢居るのだから、部屋の外にまで響き渡るほどの大声で叫ばれたら身バレも何もない。
と、いうのは建前で……
「百さんめちゃくちゃ酔っ払ってるんで、俺が連絡させてもらいました」
「うそぉ! 楽が連絡してくれたの~っ? このいい子ちゃんめ~っチュウしてあげる!」
「百さんっ、ちょっ、と――」
モモにヘッドロックをかまされている男が、よく見知った後輩アイドル(イケメン)だったのだ。
「未遂だよ、ミスイ」
すぐ傍から声が掛かって視線を下げると、見るからに人の良さそうな初老の男がグラスをぐいっと傾けていた。制作局のプロデューサーである。
「やだな染谷さん、僕らみたいな熟年夫婦にはただのスパイスですよ」
「不倫は文化って? ゴールデンじゃ笑えないよぉ」
片手で自分の隣の座布団を叩くので、ユキは笑いながらプロデューサーの横に座り込む。ちょうどモモを対角線上から眺められる、ベストポジションだった。
「一応アイドルだから相方にピーって言わせるね」
「使い勝手いいなア!」
プロデューサーが天井を仰いで笑った時、またモモが、
「ぐぬぬ遠いっ! ダーリンの元まで一千光年かかっちゃうっ!」
と、片腕で楽の首を締めあげながら藻掻いた。
掘り炬燵に居並んだ人たちを掻き分けてこちらへ泳いで来ようとする意志は伺えるのに、後輩の広い肩幅に絡みついたモモの片腕はなかなかほどけない。
とりあえず生を注文した後に、ユキはさわやかに手を振った。
「織姫さん、一カ月後に会おうね」
「じゃあ俺たち天の川ってことで!」
「俺は何やればいいんすか?」
「八乙女は機織り機やってよ」
「機織り機……? こうか?」
「それはオレのオシゴトでしょ!」
芸人たちの無茶振りを真に受けて、楽は大真面目な顔付きでエア機織りを始め、モモは盛大にウケている。個室の中にどっと笑いが湧き上がり、演者も制作も一緒くたになって盛り上がりはじめた。
「ほんとイイ子だよね」
テーブルのこちら側で静かにグラスを傾けながらプロデューサーがほほ笑んだ。
「誰が?」
「百ちゃん。周りが良く見えてるし、フォローも上手い。居るべくしてあそこに居る人間だな」
「そうね」
目の前に運ばれてきた中ジョッキの曲線的なボディの上を、雫が一粒流れた。
「そう、ですね」
その雫を舐め取るようにして、ユキはグラスに唇を付けて……、ちらり、とモモに視線を投げかけた。
大きな両眼は赤ワインに浸ったようにして、暗い部屋の片隅からまろやかな輝きをこちらに投げ返してくる。
(どういう表情?)
モモの頬はほやほやにふやけていた。ふやけたまま、友人たちの川に溺れながら幸せそうに笑っているのだ。
ユキはグラスを一気に傾けた。
傾けながら、泣きぼくろの左目でウィンクを二回。
『もうそろそろ帰ろうか』
そう合図を送ったのに、モモは朝の挨拶を受けた時のようにふにゃりと笑っただけだった。
「ちょっと……、外の空気吸って来ます」
しばらくじっと座ってモモを観察していたが、痺れを切らしたユキは席を立った。
「喫煙所無いから非常階段だよ」
プロデューサーはまるで自分の家を案内するようにして階段の方向まで指を指して教えてくれる。それに「はーい」と可愛らしいお返事を残して、ユキは足早に宴会場からエスケープした。
暖簾の掛かった厨房への入り口、その手前に誘導灯のランプが光っていた。重たい金属扉を押し開けて非常階段に踏み出せば、途端に初夏にあるまじき熱帯夜がユキに襲い掛かってくる。
非常階段は薄暗かった。いや、薄暗いと表現するにはずいぶんと暗すぎた。
はるか遠く、ビルの狭間に見える往来からは街頭の光がさし込んでいる。だからもう少し明るくてもよさそうなものなのに、光が一本の大樹のようにして地上から生え上がっているだけで、ユキに明るさを投げかけてはくれないのである。
ユキは気だるげにため息を吐きながら、スラックスのポケットから潰れたセブンスターを引っ張り出した。
残り半分も残っていない紙煙草のパッケージは宴会場でじっとしている間にユキの尻にだいぶん敷かれてしまったようだ。潰れて折れ曲がった蓋を開けて、爪の先でライターを摘まみ出す。
これで中身の煙草まで潰れていたら、ユキは宴会場に舞い戻ってモモに詰め寄っていただろう。
誰が見ていたって構わない。その場でキスをしてモモの全身が固まったところで、無理やりにでも酒宴から引きずり出していた。
そんな甚だ恐ろしい妄想を頭の中で転がしながら、煙草を唇に挟んで火を着けた。
途端に暗いビルの谷間にオレンジの炎が燃え上がり、白い煙が生温い初夏に攫われてゆく。
(迎えになんか来なきゃよかった……)
有害物質と生温い空気を一緒に口の中で混ぜ合わせて、強く肺に送り込んだ。
雑居ビルが競うように聳え立つコンクリートの狭間は、ビルが作り出す黒い渓谷だった。
隣のビルから枝を伸ばす非常階段の鉄骨はユキの立っている五階の踊り場の目の前まで張り出していて、手を伸ばせば隣のビルに触れられそうだ。
ミッション・シリーズの不知火刑事ならば室外機を足場に軽々と犯人を追いかけるのだろうが、生憎生身のユキにはそんな度胸はない。
(いや、いけるかな……無理だな)
谷間の闇を覗き込み、ついでに空を見上げた。
上階の踊り場は黒々とユキの頭上に張り出している。そのせいで、ビルの合間から見上げた夜空は小さく切り取られてしまっていた。まるでハサミを入れた直線だけで構成される夜空は無機質で、星の輝きは遥か彼方でどんよりと濁っている。
つい数週間前に、モモに連行されて山奥に星を眺めに行った。あの夜空はこんなふうではなかった。
そこらじゅうに星が瞬いていて、手を伸ばしたら両手いっぱいに掴めそうなほどに近くで瞬いていた。黒々としたビロードを天井に広げて、黄色、白、青、と綺麗な宝石を丁寧に飾っていくような感じだ。一つや二つだけを飾り付けたのではない。まるで衣装にビーズを無限に縫い付けてゆくデザイナーのように、気の遠くなるほどの時間をかけて表現される、静かな美しさだったのだ。
そんな夜空をつい最近眺めたばかりだからだろうか。雑居ビルの狭間で見上げる四角い空はどこか寂しく感じられて、ユキは肺に吸い込んだ煙を荒い息と共に吐き出した。
モモが遠くで笑っていると、たまに、ひどく不安になる。
ごく稀に、滅多にあることではないが、不安を通り越して腹立たしいことさえある。
モモがみんなに囲まれている風景を見るのが、ユキは好きだ。
ユキは自分で自分のことを、誰からでも好かれる人間ではないとわかっている。子どもの頃からだいたい今のような性格だったから、親しい友人も多くはなかった。今だって、モモのおかげでユキの性格がある程度世間に知れ渡ったから、のんべんだらりとした態度も大目に見て頂けているだけだ。
そんなことは自分でもよくわかっている。ユキは人に好かれやすいとは決して言い難い人間なのだ。
それに対して、モモは違う。
いつだって太陽みたいな笑顔を頬に浮かべているし、誰にでもまんべんなく話しかけるから、知らない人とでもすぐに打ち解ける。『人好きのする人間』とは、まさにモモみたいな子のことを言うのだろう。
そんなふうなので、モモはどこに居たって人気者で彼の周りはいつも人で溢れていた。
モモがみんなに囲まれている風景を見るのが、ユキは好きだった。
自分が『いいな』と思っている子がみんなに愛されているのはとても幸せなことだ。モモが幸せそうに笑っていれば、ユキも幸せになれるから。
しかしそれは、飽く迄も『愛されている』度合いが、友人程度の距離感の場合に限る。
ユキはそれほど心が広くない。特にモモに関係することには恐ろしいほど思考が愚直になる。
今のユキが、モモのために連絡を寄越してくれた生真面目な後輩にも、酒とノリで手を叩き合う芸人仲間にも良い感情は抱けなかったのが良い例だ。
だって、危険じゃないか。
ユキに連絡を寄越さずにモモを泥酔させることは簡単だ。モモは懐に入れた人間に対して甘いから、友人たちが瓶を傾ければ気を許してどこまでも飲むだろう。 腕と腕を触れ合わせられる距離に座って、頬を寄せ合っているのを見ていられない。それを許すモモのこともまとめて許せなくなりそうだ。
これを狭量と呼ばすに何と呼ぶのだろうか。
モモが幸せそうに笑っていると、ユキも幸せだ。
けれども今は、そうは思えない。
誰のせいだ? ユキか? 多分違う。
モモのせいだ。
モモがあまりにも楽しそうに笑うから……
「あー、抱きたい」
ユキは肺の中に溜まった不穏な感情を押し出すようにして、長い息を吐いた。
エアコンの室外機がごうごうと唸り声をあげながら、まるで砂嵐のようにしてユキの鼓膜を揺らしていた。
短くなった煙草を携帯灰皿に押し込んで、もう一本に火を着けた時だった。
「ぶっぶ~! 渋谷区内の公共の場での喫煙には罰金が科せられます~!」
背後の扉が勢いよく開いて、モモの陽気すぎる険しい声が背中に突き刺さってきたのである。
「ごめんなさい、見逃して」
「いいわけないじゃん!」
するりと左腕にモモが絡んで、ユキの指先に挟んだ煙草の先を見つめていた。あまりにも至近距離で凝視するものだから、薄闇の中で輝く大きな両眼が寄り目になってしまっている。
「だいぶ酔ってるね」
「酔ってないよ? 酔ったフリしてるだけ~」
「ハハハッ」
ユキは声を上げて笑った。
「楽屋が近かったから楽も誘っちゃったんだ」
「むりやり引っ張って来たんだ?」
「んふふ!」
モモは優しげにほほ笑んだ。
「楽って案外かわいいから、悪い人に利用されないか心配になっちゃうよね」
「守ってあげなきゃダメじゃない」
「明日カオルちゃんに絶対怒られる! 一緒に謝ってくれる?」
「えーどうしようかなー」
笑い声をあげるモモは、上半身を折り曲げてユキの腕にぶら下がるようにしてようやく踊り場に立っている。平衡感覚が失われ始めているので、相当酔っ払っている証拠だった。
「おねが~いダーリ~~ン!」
腕にぶら下がったままずるずるとその場にへたり込もうとするので、ユキも重みに耐えかねて踊り場にしゃがみ込む。灰が落ちるのを気にしているうちに、モモはすっかり踊り場の鉄板にぺたりと横座りになってしまった。
仕方なくユキも腰を下ろし、長い足を三角に折り畳む。
「ユキが居ないから寂しくなっちゃった……」
すぐさまモモの体温が腕に寄り添った。まるでユキの部屋のソファに座っているようなあんばいで、モモの素肌が寄り掛かってくる。
(よく言うよ。後輩の肩に凭れかかって笑ってたくせに……)
とは口に出さず、ユキは笑みを含んだままの唇をフィルターに付けた。
暗い非常階段の踊り場にオレンジの恒星がじりじりと瞬いている。短い命を燃え上がらせ、白い尾をどこまでも長く引きながら今にも地上に堕ちようとしていた。
「ねえ、ユキ」
ふいにモモの甘ったれた声が、ユキに呼びかけた。
「―――、なに?」
ユキは深呼吸と一緒に煙を吐き出した。
「ちょうだい?」
「………」
白い靄の向こう側でモモの目が蕩けている。
先程ユキを苛立たせた、あの眼差しだった。
「身体に悪いよ、サッカー少年」
「同棲してただろ~あの時はノーカンなのか~!」
「穢してごめん」
「まっさらだったのに~」
ごつん、ごつん、と何度も肩の骨にこめかみをぶつけられて、ユキは軽く笑いながらフィルターをモモの唇に押し当ててやる。
「す~~~っ!」
音に出してヤニを吸い込んだ後で、モモは慣れた仕草で煙を吐き出した。
ふっくらとした唇の先から、白い靄が一本の線になってビルの谷間に流れてゆく。煙はすぐに形を失いながら夜に溶けてしまった。
「………」
ユキの両眼は、伏し目がちに睫毛を瞬かせるモモに釘付けになってしまった。
遠くのビルの切れ端から射し込む街灯が丸い頬を撫でていた。薄暗い夜の渓谷に浮かび上がるモモのまろやかな輪郭だけが、ゆっくりとユキの視界を支配しはじめる。
鉄板の踊り場にはときおり生温い風が通り抜け、長いまつ毛の先がちらちらと揺れる。その揺らめきに誘われるようにして、はらり、と星が夜に舞った。
「……モモ、」
ユキは思わず、モモを呼んでいた。
フィルターからモモの唇が静かに離れてゆく。
次の瞬間――
「ァアーーーっ!」
ビルの狭間にモモの絶叫が響き渡った。
酒に焼けたしゃがれ声が暗闇の至る所に反射して、ついでにユキの鼓膜をも真横からぶち破る。
ユキは肩を竦めて第二波に備えた。鼓膜の震えが治まってからうるさいと言おうと思っていたのに、またしてもモモの叫び声に横っ面を張り倒される。
「今ヤバいことに気付いちゃったんだよねっ!」
「モモ、うるさいって」
強い口調で注意したのに、モモは饒舌だった。
「今オレ、ユキと間接チューしちゃった!」
きゃあきゃあ黄色い声をあげながら全体重をかけるようにして肩に縋りついてくる。重みに耐えかねて、いよいよユキの身体は左に傾いて今にも踊り場に引き倒されそうになってしまった。
「しかもタバコでっ!」
「そうね」
ユキは慌てて煙草を携帯灰皿に押し込めた。
苦笑いで頷くと、モモは両手で頬を押さえながらぐねぐねと身悶え始める。
「どうしよぉっ、オレっ、ユキのファンに殺されちゃうよぉ!」
身悶えたかと思うと、今度は号泣し始める。いや、号泣するフリ、をし始めてしまったのだ。
ユキは呆れと尊敬のないまぜになった表情でモモの歪んだ頬を眺めてしまった。
なんだってこう……、かわいいのだろう。
モモがユキをカレシにしたのはもうずいぶん前のことで、それからというもの、ユキはカレシの権利を行使して、誰にも言えないようなことを数えきれないほど繰り返してきた。
それなのに今更驚いて、泣けるのか。
間接キス程度のお遊びで、こんなふうに、モモはなれるのか。
そう思った瞬間には、頭の中で火花が散っていた。
「ユ、――」
食らいついた唇は熟れていて、柔らかかった。
ぽっかりと離れた八重歯の隙間に舌先を押し込んで、その先で待ち受けている舌を揉みしだく。濡れた粘膜が熱かった。
「おまえのせいだよ」
絡みついて、離れて。何度もぶつかりあった唇は少しひりついていて、モモの粘膜からもらい受けた渋味がまだ、ユキの舌の上にまとわりついていた。
「うん。わかってるよ」
モモの声はか細くて、どこか甘やかだった。
「早く帰ろう」
「どこに?」
「僕の部屋」
ユキが唇の上に笑みを乗せると、モモはキスの余韻に潤ませていた目を三日月のように細めた。
「妬いてくれたんだ。……ちゃんと」
ユキは息を呑んだ。
息を呑んで、思わず笑い出してしまった。
「まったく、悪い男だなモモは!」
薄闇の中で大きな両眼が妖しげに輝いている。
ビルの谷間に反射する笑い声は、夜に紛れながらいつしか消えていった。
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