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初恋

  • 執筆者の写真: rain
    rain
  • 2022年10月3日
  • 読了時間: 21分

更新日:2022年10月6日



「うわぁ~……」

 胸の奥から絞り出したようなモモの感嘆に、ユキは視線を上げた。

 長く暗い階段を上り切った先に現れたのは大きなクラゲの泳ぐ碧い水槽だった。オレンジの傘に白くて長い足をフワフワさせて、重なり合って回りながら縦横無尽に水の中を泳いでいる。

「懐かしいな……」

 クラゲの前で足を止めて、ユキは思わず呟いた。

 水槽のガラスはユキの膝丈から始まって背丈を優に超えるほどの高さで、横に三メートルくらいの幅で堂々と鎮座している。透明なガラスの向こう側で泳ぐクラゲは、まるでそういう演出の動画なのかと思うほどに生命を感じさないのに、それとは真逆に、妖精たちが重なり合って力強く踊っているようにも見えるのが不思議だった。

 日本一の高さを誇るソライロタワーは、開業から今年で七周年を迎えた。タワー直下に広がる商業施設にはプラネタリウムや映画館などのレジャー施設が併設されていて、ここもその一つである。

「もう七年だって。開業の時にロケで来たよね」

「七年か……早いな」

「バーターでちょこっと映らせてもらっただけだったけど、ユキがず~っと眠そうにしてたのはめっちゃ覚えてるよ」

「早朝ロケは今でも眠い」

 ユキが憮然として応えると、軽やかな笑い声が真横から上がった。

 オープン当初は入館待ちの列が遅くまで長く伸びていたが、夏休みも終わった初秋の平日、しかも午後八時をとうに過ぎている時間帯だ。閉館間際の水族館に人影はそれほど多くなく、水槽の前でしばらく足を止めても後ろから覗き込む客は誰もいない。それをいいことに、二人はじっと立ち止まると、目の前に浮かぶクラゲの群れを見つめていた。

「でも、クラゲのことはあんまり覚えてないなぁ」

「デートにちょうど良かったな」

 澄まして言うと、モモがころころと音を立てて笑いながら奥へ向かって歩きだした。

 夜の水族館は想像以上に暗かった。できるだけ自然に近い環境下に近付けるのがこの館の理念らしく、夜になれば照明は最低限まで落とされて、逆に昼には眩しいほどに明るくなるらしい。ロケの時は開館前の早朝に訪れたから、これほどのムードはなかった記憶がある。

 澄んだ水にどこまでも透明な水槽のガラス。至る所に座って話し込めるようなソファが設置されていて、ここにカップルになりきれないカップルが来たとしたら、もう付き合うしかない。そういう、如何にもデートです、という雰囲気が館全体から惜しげもなく醸し出されているのだ。

 実際に、順路を少し進んだところにある庭池のような底の浅い水槽の周りには、カップルと思しき影が数組ゆらゆらと漂っている。きっと、少し離れて歩く自分たちも、周りの客の目には順風満帆なカップルとして映っているのだろう。

「あの時とは全然違う雰囲気だなぁ……」

 小さなクラゲの浮かぶ庭池を横目で見送ると、今度は右手に、またしても巨大な水槽が現れた。引き寄せられるようにしてモモの後姿がふらふらと離れてゆく。

 この水族館はビルの五階と六階を吹き抜けにして造られていて、こじんまりとしたサイズ感ながらも、開放的な空間演出が売りの都会ならではの水族館だった。モモが引き寄せられたのは二フロア分の高さを利用した大水槽で、近隣の海の生き物たちがぎっしりと詰め込まれているらしい。

 説明を横目にモモの様子を窺うと、両手でガラスに触れながら向こう側を見上げる横顔がとろんと溶けている。随分リラックスしているようだった。

「モモ……」

 耳元でこっそりと名前を呼んで、人差し指をモモの手首に絡めた。いや、絡めようとした。

「あっ、チョウチョウウオ!」

 少し冷えたモモの左手が蒼暗い光の中を泳いで、すっと離れてゆく。

 ユキは右手を見下ろした。

(躱されちゃった……)

 照明の落とされた館内は暗すぎるので、アイドルの男二人が手を繋いでも気付かれないだろう。だから触れていたかったのに、モモの態度は冷たさなどとうに通り越して、いっそ冷酷なほどに思えた。

 二人の眼前を巨大なサメが悠々と横切った。鈍く光る体をゆったりと見せつけながら、暗い蒼の向こう側に消えてゆく。

(答え合わせに失敗したら……、僕はフラれるのかな……)

 深く息を吐きたいのを堪えて、ユキはそっと大水槽の前を離れた。


 

 モモとケンカをした。

 ちょうど一週間前のことだ。

 理由はほんとうに些細な事だった。些細だが、単純ではない。モモとケンカをする時はいつだって、その理由を推察するのが難しい。

 二週間と三日前、作曲明けのユキはボロ雑巾に成り下がっていた。今回に限らず毎度のことなので、それを見越したおかりんは休息用のオフ(という名の第二締め切り)を一日だけ翌日に確保してくれていて、なんとか締め切りに間に合わせたユキは、モモと二人でオフをまったりと過ごしていた。

 作曲期間の詰めに入ってからはしばらく仕事もモモ一人だったし、ラビチャもそれほど返信していなかった。ユキが気付いていない間も、部屋に出入りして食料を置きに来たついでにあれこれと世話を焼いてくれたが、しっかりとモモに向き合って会話を交わす時間を設けることがなかなか難しかったのだ。

 そんな日々が続いたのもあったのだろう。

 あの日のモモはとてもかわいらしかった。

 いつも以上にユキにべったりくっ付いて、逐一甘ったるい声をあげていた。さして大豪邸でもない普通の2LDKを数歩移動するだけなのに、手を繋いだりシャツの裾を握りしめてきたりして恋人モード全開ではしゃいでいたのだ。

 かわいかった。

 食べてしまいたくなるくらい、かわいかった。

 もともと顔付きが子どもみたいに可愛らしくて仕草にも茶目っ気の多い子なのに、そんなふうに甘えられたらどうしようもない。わがままを全部叶えてやりたくなるし、恥ずかしがって泣き出すくらい愛してやりたくなりそうだった。

 なりそうだった、じゃない。なった。

 そんなわけで、ストレス要因が消えて開放的になっていたのも手伝って、あの夜はめちゃくちゃに燃えた。湯船の中でのぼせるほどモモの身体を弄りたおして、ベッドルームに移動する時も足がおぼつかなくなるほどキスを繰り返した。汗と唾液でめちゃめちゃになったモモをベッドに沈めて、シーツがぐしゃぐしゃになるほど身悶えさせた。

 最高の夜だった。モモはかわいいし、セックスはきもち良かった。世界のすべてが二人のために存在しているような錯覚をユキに覚えさせるほど、美しい夜だった。

 異変が起きたのは翌日からだ。

 思い返せば、翌朝からモモの雰囲気はヘンだった。ヘンというか、すっかり憑き物が落ちたみたいにして、急に冷たくなったのだ。

 モモだけ昼から仕事だったのも理由の一つではあると思う。しかし、前夜の余韻を引き摺ることもなく颯爽と、モモは玄関を開けて元気に飛び出して行った。

 リビングにぽつんと残されたのは、気怠い甘ったるさを抱えたままのユキとコーヒーの香りだけ……

 あの朝からこちら、つまり二週間前から、モモの態度は北極のようだった。ユキの部屋を訪れる回数はゼロで、電話もない。それどころか、ロック画面を覆い尽くすほどの勢いで届いていたラビチャの通知も数を減らしていた。仕事で顔を合わせてもどこかよそよそしくて、かと思えば、楽屋の壁に貼り付けられている鏡を見つめてぼうっとしているのだ。

 そんな状態が一週間も続けば、誰だってモモの様子がおかしいと気付くだろう。

 どう考えてもヘンだ。ユキを避けているのだ。

(もしかして……、浮気か?)

 ユキはいとも安易にモモを疑った。

 長い間恋人を放置していた自覚はある。しかも終盤の方は風呂にもろくに入れなかったから、髭も伸び放題で髪もぼさぼさで、モモの大好きなイケメンではいられなかった。ボロ雑巾以下の見た目で幽鬼のように部屋を彷徨った記憶もある。幸い曲を締め切りぴったりに仕上げられたから良かったものの、今回は間に合っただけで、いつもは締め切りをぶち破ってモモを心配させる。おかりんも泣かせる。

 胸に手を当てて考えてみればユキの方に非があるが、モモの態度があまりにも妙で、それがどうしようもなく寂しくて不安で、モモの心の裏側を考えられなくなってしまっていたのだろう。

 それで、ケンカをした。

「もしかしなくても、浮気か?」

「………………、は?」

 たっぷりと間を取ってから、モモは低い声を絞り出した。鏡の前のパイプ椅子に腰掛けながら、首だけをこちらにぐるりと回して、まるでこの世の終わりみたいな顔で言ったのだ。

 モモの表情を目にしただけで、間違った、とユキは理解した。あまりにも自分の思考が単純すぎたし、投げかけた言葉も率直すぎた。

 しかし、謝罪の言葉は口を突いて出なかった。なぜならユキが唇を動かすよりも早く、モモが椅子を蹴って立ち上がり楽屋を出て行ってしまったからだ。

 それが一週間前のできごとである。

 以来ユキは平身低頭でひたすら詫びまくった。

 放置してたのは本当にごめん。浮気を疑ったのも悪かった。

 しばらくイケメンじゃなかったのも謝るよ。

 モモはかわいい。世界一のアイドルで、宇宙一のパートナーだ。

 機嫌をなおして。

 大好きだよ、モモ。

 ユキにしては言葉を尽くしたラビチャを送っても、レスポンスは業務連絡混じりの挨拶程度だ。電話にも出てくれない。頼みのおかりんは新曲関連の仕事で走り回っているし、サブマネはいつもただの壁だ。後輩たちにラビチャを送っても、まるで談合でも行われたのかと思うほどの結束力で『早く仲直りしてください』と返される。

 孤立無援で一週間モモのだんまりと戦い続けて、さすがに限界の二文字が目の前にちらついた。

 カメラが回っている間は蕩けた顔と甘ったるい声で腕にしがみついてくるのに、止まった瞬間からすっと体温が離れてゆく。モモが沈んだ顔をしているのならまだいい。ケンカが長く続いている状態がモモも辛いのだとわかるからだ。しかし、モモは見かけ上とても元気だった。

眩しいほどの完璧な笑顔で躱され続けると、急にモモの気配を遠くに感じてしまう。

 それがユキには、ことさらに辛くて、どうしようもなく寂しかった。



「モモ、おいで。ペンギンを見に行こう」

 ずいぶん長いこと、モモは大水槽の奥を見つめていた。後姿を眺めるのにじれったく感じ始めた頃に声を掛けると、モモはあっさりと蒼い海の前を離れてこちらに歩いて来た。

 ふらふらと揺れる手首を捕まえようとすると、今度は逃げられなかった。しっとりと汗ばんだ柔らかい肌がユキの掌に吸い付いてくる。

 吹き抜けからペンギンのゾーンを見下ろしたとたんに、水の匂いが強くなった。微かに混じるいきものの生ぬるい臭気が鼻先に引っ掛かってくるが、一瞬呼吸を止めることで何とか遣り過ごす。

「ペンギンって、夜もずっと泳いでんの?」

 すいすいと水面を走るように泳ぐペンギンたちを見下ろして、モモが軽く笑った。手首をユキに掴まれたまま熱心に下を覗き込んでいる。

「どうだろう」

「暗くないのかなぁ」

「水の中はライトアップされてるから、彼らには明るいんじゃないか?」

 そんなもんかぁ? と不思議そうに小首を傾げたモモは、片手で遠くを指さした。

「ユキ見て! 一羽岩にのぼっていった!」

「ほんとだ。次々にのぼってくね」

「かわい~」

 吐息混じりに呟くモモの声は甘やかで、砕けた音色をしていた。

 ユキはそっとモモの様子を窺った。

 丸い頬のラインが階下からの光に照らされている。ぼんやりとした薄闇の中で、横顔がほほ笑んでいるように見えることにユキはほっと胸を撫でおろしていた。

『なんでオレが怒ってるか、わかる?』

 一週間冷戦状態が続いて、昨夜急にラビチャが送られてきた。

『わかるよ』

『たぶんわかってないと思う』

 即レスだった。

 その通り。たぶんユキは、わかっていない。

 素直にそう言えばいつまで経っても許してもらえない気がするので、ユキはこう返信した。

『わかってるよ。答え合わせをしたいから、明日の夜デートしよう』

『ごめんなさい』

『ごめんなさい? どうして?』

 この状況に対する謝罪なのか、それともデートに対する断りか……ユキは眉根を寄せたまま固まった。

 最近わかったことがある。

 多分ユキの方が、モモのことが好きだ。

 モモの愛情を疑っているわけではない。モモに向ける感情のサイズがあまりにも極大すぎて、モモを押し潰してしまいそうで不安になるのだ。

 昔はそれほど怖くなかった。今以上にモモに寄りかかって生きていたはずなのに、モモの献身に今よりずっと疎かったからだ。モモに抱きしめられて励まされながら、長いことずっと見守られてきた。そのことに不安になるどころか、ユキは深い安堵を覚えていたのだ。良い人間になれるように、モモを守れるようにと自分なりに努力はしてきたが、なにせモモは強くて自分よりもかっこよかったから。

 しかし、いつの日だったかユキは唐突に、自分だけの安堵では満足できないことに気が付いてしまった。モモにも安らぎを感じてほしい。自分の腕の中ですべてをさらけ出してほしい。そしてできればこの先の人生もずっと隣に居てほしい。ユキがそう思っているようにモモにもそう感じてほしいと願う自分に気付いて、愕然としたのだ。

 こんな感情は知らなかった。今までに感じたことのない、あまやかで激しい、不協和音のようだった。

 これはもしかすると『恋』という感情なのか。

 いや、これが『愛』なのかもしれない。

 閃いた時には、その考えは巨大な雷になってユキの上に轟いていた。轟いた後には暴流のようにユキの胸の中に渦巻いて、身体を突き破ってモモに向かって流れ出してゆくのを止められないのだ。

 明日面と向かってごめんなさいと言われたら、どうしようか。別れようとか言われたら、ユキは死ぬかもしれない。

 不穏な考えにのたうちながらベッドの中で呻いているうちに夜が更けて、いつのまにか今日になっていた。朝になってもモモからの返信はなかった。

 それでもこうやってどこにも遊びに行かずに素直に車に乗ってくれたから、デートをしても良いと思えるほどには、まだ嫌われていないと思っていいのだろう。

「手、握ってていい?」

「……、うん」

「下に行って、横から水槽を観よう」

「いいよ……」

 ユキは捕まえていた手首を一度離すと、モモの掌に自分の右手を重ね合わせて指を絡めた。

 しっとりとした肌が吸い付くように指先に触れる。

 久しぶりの、モモの左手だった。

 階下へと下るスロープは、ペンギンの水槽を足下に覗き込みながら岩場の上をゆったりと蛇行する。水の香りが一段と強くなってユキは眉を寄せたが、モモの足取りは楽しそうだった。

 閉館間際の水族館には人が少ないし、暗いのを良いことに手を繋ぎ放題なのが最高だ。館内に疎らに点在するカップルは自分たちの恋人に夢中で誰もこちらに気付かない。自分たちの後ろをゆったりと通り過ぎた男二人がトップアイドルだなんて、誰ひとり気にしないのだろう。

「やっぱり夜は寝るんじゃん?」

「ペンギン?」

「ほら」

 スロープの手摺から乗り出すようにしてモモが岩場を指さした。

 先ほど水から上がったペンギンは、今は岩場の上でくつろいでいる。いつのまに登って来たのか、もう一羽が寄り添うように先客の胸元に口ばしを寄せていた。うとうとと船を漕ぐような仕草で今にも相方の胸元をつつきそうなのに、寄り添われているペンギンは平気でじっとしているのが可愛らしい。

「なんか僕みたいだな」

「どっちが?」

「肩貸してるほう」

 社用車の中で居眠りをするモモに肩を貸す時の温かさを思い出す。でも、朝は真逆だ。ユキがモモに寄りかかってうとうとする。ということは、あの二羽はコンビか、もしくは恋人同時なのかもしれない。

「のど乾かない?」

「乾いたかも」

 モモが素直に頷くので、スロープを下り終わるとペンギンの水槽の前を素通りして売店に向かった。

 ブルーハワイのシロップで色付けされたドリンクが人気らしく、メニューパネルにでかでかと表示されているので、二人ともそれを注文する。モモの分はアルコール入りのカクテルで、運転するユキはペンギンの形をしたアイスが浮いているノンアルだ。

 LEDライトの仕込まれたプラスチックがぷかぷか浮かグラスをモモに渡して、ユキは空いた手でまたモモの掌を握りしめる。

 さきほどモモが長い間留まっていた大水槽は上階から繋がりながら階下にも広がっていた。ペンギンのねぐらと同じフロアにあるのにこちら側はやはり蒼暗くて、シルエットがようやく判別できる程度である。

 薄闇の中に並べられたソファに腰掛けると、二人は大水槽を見上げた。

 見上げたはいいが、右横だけがやけに明るい。暗闇の中にモモの輪郭だけが、きらきらと碧く浮かび上がっているのだ。

「派手なカクテルだな。パリピっぽいし、モモが好きなやつに似てる」

「スリングショットのこと? だってアレ、オレたちの色してんだもん呑まなきゃでしょ」

 以前業界関係の飲み会で潰れた時のことを責められたと思ったのか、モモはさも当然のことですが? とでも言いたげな声で大きな両眼をさらに見開いた。蛍光ブルーのカクテルのせいで横顔がぴかぴか光り、まるでモモの周辺だけがクラブのようなあんばいだ。

 まったりとした夜の水族館にクラブを爆誕させてしてしまうモモがいかにもモモらしくて、ユキは思わず吹き出してしまった。

「っくく、 世界中に緑のお酒がどれだけあると思ってるんだ」

「千種類かなっ?」

「ピンクのお酒は百種類?」

「そうかも!」

 上機嫌な音を即席クラブに響かせながらモモはカップを傾けた。青い光が細い鼻筋を照らし、濃い睫毛の先に雨粒のような輝きを描き出している。

 こういうところを目にすると、モモは綺麗だな、といつも思う。

 世間的にはキュートであざとい元気系というイメージが定着しているのだろうが、ユキの瞳に映り込むモモは時々、この世の誰よりも美しかった。

 このモモを知っているのはもしかすると自分だけなのかもしれない。そんな臆見に、ユキは時々自分の胸の奥が甘苦しくなるのを感じていた。

 女の子っぽいから美しいとかいう意味ではない。イケメンだから、というのも少し違う。爽やかなのに婀娜っぽくて、いたずら好きの天使が空の上から人間界を眺め下しているような尊大な美しさだ。その不敵な横顔が全く嫌味ではなく、ただただ清々しいのだ。

 もちろん本人には言わない。音にすると美しさが砕けて消えてしまいそうだから、わざわざ言葉にするのは野暮だ。なんだかかっこわるい。

(尊大、か……ちょっと違うな)

 ユキは傾けたカップから唇を離すと、繋いだままの右手に力を篭める。

 無言で目の前の水槽を見つめる二人の視線を惹き付けるように、暗い水の中を魚たちの影が横切ってゆく。白い砂を敷き詰めた海中は、暗い館内と相俟って海溝の底を潜水艇で進んでいるような錯覚をユキに抱かせる。モモのカクテルの青い光だけが、フロントガラスの向こう側を照らし出す微かな希望のように感じられた。

「少し怖いな……」

「そうかな」

 モモの声音があまりにも静かで、ユキは大水槽から視線を逸らした。

 黒々とした濃い睫毛を少し伏せて水槽を見つめるモモの横顔は憂いているように見えた。しかし、まなざしに混じる感情はネガティブな憂鬱さではない。水の中を悠々と泳ぐクラゲみたいに艶やかで、夜の海辺のようにひんやりとしている。深くて恐ろしくて、けれども、海というのは生命の母だから、溢れんばかりの慈愛で満たされている。

 まるでミケランジェロが彫ったピエタのような、モモの横顔はそういう静かな美しさだ。

 だからモモは、美しいのだ。

(尊大なのは僕だ……いつもモモを悲しませて、赦されようとしてる……)

 ユキは自分の左手の中で汗をかいているカップを一気に煽ると、甘いシロップで唇を湿らせた。

「それで――」

 声が少し、掠れた。

「うん……」

「答え、なんだけど……」

「……、うん」

 モモは静かに頷いた。

「やっぱりわからない。……ごめん」

「………」

「わからなかったけど、反省してる。きっと僕が悪いんだよな。いつもそうだから、今回もそうなんだと思うよ」

「……ユキ」

「ラビチャでも言ったけど……、言ったと思うけど、モモにはいつも感謝してる。言葉が足りなかったのなら謝る。浮気したとは思ってない」

 ぎゅっと、繋いだ手に力を篭めた。

「モモはいつも僕を赦そうとしてくれるけど、僕はただの人間だから、これからも間違うと思う」

「………」

「でも、ごめん……。おまえが好きだ」

「………」

 ユキはひりついた喉を湿らすようにカップを傾ける。指先を冷たい雫が流れて、手首を伝ってぽたりと膝に落ちた感触がした。

 しばらく二人とも何も言わなかった。潜水艦のフロントガラスを巨大なエイが横切り、白い腹をこちらに晒しながらひらひらと泳ぎ去ってゆく。

「ユキは……」

 モモがそっと、囁くように言った。

「ユキは神様だよ」

「違う。おまえがいつも、海みたいなんだ」

「海ってなに?」

「マリア様みたいって表現はヘンか?」

 モモはゆっくりとこちらを見ると、小首を傾げた。モモの丸い頬の輪郭がぴかぴかと碧くて、ユキは口元で笑った。聖母の掌の中でカクテルが光っているなんてずいぶん派手な聖画があったものだ。

「僕のことは赦さないで。モモは優しくていつも僕のことを優先してくれるから、甘えそうになる」

「………」

「だけど……、今は少しだけ優しくしてほしい」

 きっとモモは、ユキの中の濁流の存在を知らないだろう。

恋 人として付き合うことになったのは一年も前だが、モモは昔からずっとモモのままだ。海みたいに深くて優しくて、ユキを包み込んでくれる。氾濫する川じゃない。

「冷たくされるとけっこう堪えるよ。僕はモモの想像以上に、おまえに依存してるから……」

 誤魔化すようにしてユキはカップに口を付けた。

(初恋って、こんなに不安なんだな……)

 舌の上に甘ったるいシロップが広がって、それが喉を通り過ぎる頃にはじんわりと苦みに変った気がした。

 その時だ――、

「ちょうだい」

 モモが突然ソファから立ち上がった。

 慌てて顔を上げるとこちらに向かって片手を差し出すので、半分ほど中身の残ったカップを掌に乗せる。モモはパタパタと足音を立ててLEDライトの入った派手なカップを返却口に戻して、また早足でソファの前に戻って来た。

「来て」

 勢いよく手首を掴み上げられて、ユキはソファの角に足を取られてたたらを踏んだ。それを掬い上げるように腕を絡められ、体温が急に寄り添ってくる。

「どこ行くの」

 少し荒っぽく腕を引っ張られて連れ込まれたのは、大水槽の裏手に設けられた暗くて細いトンネルだった。中を覗き込むためのものなのか、丸い小さな穴が五、六個水槽に向かって空いている。

 その横穴から射し込む海の蒼だけが、トンネルの中を照らす光のすべてだった。

「ユキ、ごめん……許して……」

 背中を壁に押し付けられて、モモの甘い体臭が鼻先に香る。二の腕をぎゅっと掴まれたかと思うと、肩口がしっとりと温かくなった。

「ユキが作曲で煮詰まってたの知ってるし、オレたちの曲を作るのに頑張ってくれてるのに……、曲に焼きもち焼いても、意味ないのに……」

 心臓が一拍、高く飛び跳ねた。

「曲に……、焼きもち?」

「ぐっ、リピート禁止っ! 自分でもバカだなって思ってんだからね!」

「だって、――」

 そんなはなし、初めて聞いた。

 七年間ずっとモモの目の届く範囲で曲を作ってきたし、モモだってその曲に歌詞を乗せてくれている。何度も何度も繰り返してきたことなのに、一度もそんな言葉をモモが吐き出したことはない。聞き返したくもなる。

「それで……、モモは寂しかったの?」

 暗闇の中でモモのシルエットが戸惑いがちに頷く。

 心臓が急に熱を持ち始めた気がして、ユキは右手でそっとモモの背中を抱いた。

「ユキの作曲を心から応援してるし、ユキの曲を世界で一番楽しみにしてるのはオレだって断言できるけど……、寂しいのもホントで……」

 寂しいなんて、初めて聞いたのだ。

 七年も一緒に活動してきたのに。そのうち一年は恋人として過ごしてきたのに。

(また、好きになった)

 モモが言葉にしてこなかった悩みやわがままを耳にすると、今までよりずっと、もっとモモが好きになる。肥大化して重量を増した感情がモモを潰すかもしれないとわかっていても、膨れ上がっていく熱を抑えられない。

「でね……」

 溜息のようななまぬるい吐息がユキの喉仏を擽る。

「オレ、舞い上がってて……あのオフの日はいつも以上にユキに甘えてた。思い出したら恥ずかしくなっちゃって……」

「何を?」

 問い返すと、言わせんな、と二の腕にパンチが飛んでくる。

「冷静になんなきゃユキに迷惑かけちゃうなって反省して……それで、ちょっと――」

「僕に冷たかったんだな」

「うっ……、ホントにごめんなさい……オレの心の問題です……」

 ユキの笑い含みの声が暗闇の中に転がった。

「何年一緒に居ると思ってるんだ。もっと恥ずかしいところもいっぱい知ってるぞ」

 例えば、この前飲み会で死んだときユキの家のトイレで吐いたこととか……。と言い出そうとしたところで、

「ユキだって悪いんだよっ!」

 モモが急に気色ばむ。ぎゅっとシャツの胸を引っ張られて、壁に預けていた背中が浮き上がった。

「なんでオレの浮気を疑うわけっ? もっとあるだろ他に理由がっ! オレのことそんな尻軽だと思ってたのかよっ!」

「それは、謝っただろ」

「投げやりになってんじゃん!」

「そんなことない。悪いと思ってる」

 暗闇の中にモモの悲痛な叫び声が響き渡る。

「ホントはオレのこと愛してないんでしょっ?! 好きになったのもオレが先だしっ、ユキは――」

「僕は捨てられない?」

「えっ?」

 高い叫び声は揺れながら、急に足元に転がり落ちた。その音があまりにも呆けた音だったので、ユキは軽く目を見開いてしまった。

「え……?」

「別れるの? オレたち……?」

 モモの輪郭だけが暗闇の中にぼんやりと浮かび上がっている。わずかな蒼の中で見開かれている瞳は大きく、睫毛の先がちらちらと揺れていた。

気付けばユキは、モモの背中に回していた手で力いっぱいにモモを引き寄せていた。

「ユ、きっ――!」

 モモの鼻先が勢いよくぶつかってくる。探るように舌を這わせて柔らかい皮ふの感触を割り開く。後頭部を掌で引き寄せると、じっとりと汗ばんだ地肌が指先に絡みついてきた。

「ぁ、ぅ……」

 ちゅぷり、と暗闇に水音が立った。同時にモモの身体に回していた両腕がずしりと重くなる。

「こんな、とこで……ちゅう、」

「ゆるしてくれる?」

「もうとっくに、許してるよ……」

 はぅ、とモモの息が漏れて、唇にそよ風のように触れてくる。

 誰も通らないのを良いことに、蒼暗いトンネルの中で二人は抱きしめ合った。モモの心臓の鼓動がとくんとくんと時を打っていた。優しくて甘やかなモモの身体がすんなりとユキの胸に寄り添ってくる。

「オレのことも、許してくれる?」

「うん」

 圧し掛かるように体重を掛けられて、ユキは闇の中で頷いた。全身でしがみ付かれると、今まで胸の中に渦巻いていた不安が嘘のように消えてゆく。

 それにしても、なんだってそんな理由で冷たくされなければいけないんだ。ユキはコミュニケーションが苦手な方だが、モモだってあんまりだ。おかげで寿命が縮まった気がする。

(でも……)

「かわいいよ、そういうの」

「可愛くないよ……面倒じゃん」

「おまえの方がわかってないんだよな」

 額を肩に押し付けていたモモの顎を強引に上向けると、唇を探り当てて噛みつくようなキスをした。

「だからっ、こんなとこでしちゃダメだって!」

「答え合わせをしただけだろ。そのために暗がりに来たんじゃないの?」

「んなわけあるかーっ!」

 小声で叫んでは見るもののモモの声色は楽しげだった。ちゅ、と音を立てて、こんどは向こうから唇がぶつかってくる。

「僕の方がモモよりめんどくさい男だよ」

「そんなことないよ。ユキはイケメンだから全部許されるんだもん」

「いや、モモが後悔するくらいめんどくさいはずだ」

 優しいキスの余韻に酔いながら、ユキは両手に力を篭めた。

「だって――」

 暗いトンネルの中にどこからともなく閉館のアナウンスが流れ込んでくる。

 その静かなメロディに励まされるようにして、蒼い薄闇の中でユキはほほ笑んだ。


「――これが初恋なんだから」




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