斜陽
- rain
- 2024年12月20日
- 読了時間: 15分
烏天狗がミニ
「たいへん大変たいへーんっ! 烏天狗が捕まっちゃったよっ!」
鬼火が生ぬるい風を纏いながら『らーめん葛ノ葉』の店先に転がってきたのは、昼餉時をいいだけ過ぎた、午後三時のことであった。
今日も今日とて灯影街へと繰り出し葛ノ葉入り浸っていた詠は、白いフードを後ろから思い切り引っ張られて長椅子から転がり落ちてしまった。
「いったぁ!」
「烏天狗が一体誰に掴まるって?」
盛大に尻もちを突いた常連客に一瞥を投げながら、店主はふっさりした長い九尾を揺らす。
「あの大きな酒楼! 助けてあげてよ詠!」
「なんで僕? どうせ支払いでも遅れたんでしょ?」
鬼火に腕を引っ張られて、詠は渋々立ち上がる。
「つべこべ言わずに行きな、刀衆。ついでにここにも連れてきておくれ。うちにもツケが溜まっているからね」
九尾の狐はいつにも増してにっこりと、薄い唇の端を三日月のように持ち上げた。
ついでに鬼火にも至近距離でほほ笑まれて、詠が唇を突き出したのは言うまでもない。
なにせ今ラーメンを取り上げられたら、この先詠は生きていけないかもしれないのだから……
そんなこんなでとぼとぼと大通りを歩き、往来に巨大な瓦門を構えた酒楼に辿り着いた時である。
「おそい! まちくたびれた!」
甲高い声に横っ面をぶん殴られて、詠は大通りのど真ん中、酒楼の門前であんぐりと顎を落としたまま眉を顰めてしまった。
「あらまァお迎え?」
「小烏ちゃんもう帰っちゃうの?」
「はい、ア~ンして」
「……どこが『捕まった』だって?」
詠が思わず胡乱な表情を顔面に貼り付けてしまったのは、ヤツの第一声が傲然としていたから、だけではない。目の前に広がっている光景が、誰がどう見ても『なんだこれ』だったのである。
軒先に派手な提灯をぶらさげた立派な瓦門の前には、どこから運び出したものなのか、普段は見掛けない大層な長椅子が設置されていた。その真ん中にちょこんと尻を乗せた子どもが、綺麗な妖怪のお姉様方大勢に囲まれて得意げに口を開けている。
水菓子のような透明な何かを口に押し込められているのは、どこからどう見ても烏天狗のなりをした子どもだ。
そう、子どもの姿をした、烏天狗だったのである。
「おいしい?」
「んまい!」
満足そうに元気に頷く子どもの歳の頃は、せいぜい三、四歳といったところか。
短い手足はずんぐりとしていて、帯の上からでもわかるほど腹周りはぷよぷよだ。そのふっくらした胴体の上に大きな頭が重たそうに乗っている。黒々とした翼は普段の十分の一程度のサイズで、尻の横から取ってつけたようにちょっこりと生えているように見えた。
「何がどう間違えば、キャバクラの前でちっこい烏天狗さんがおねえさんたちにちやほやされる流れになるわけ?」
開いた口が塞がらない、とばかりに詠が弱々しく言うと、お姉様方は口々に文句を飛ばす。
「なに! なんか文句があるっての?」
「ちょっと! この子刀衆じゃない!」
「小烏ちゃん掴まっちゃうのっ?」
「ちがうちがう、アレはおれのコレ」
烏天狗(小)が得意げに小指を立てる。すると女たちは蜂の巣でも突いたようにして色めき立った。
「あらやだ、コレぇ?」
「か~わいい~!」
「変な言い方しないでくださいよっ!」
地団駄を踏む詠を背後に、灯影街の大通りには妖怪が行き交っていた。酒楼の門前で菓子と茶で女を侍らせている幼児に気付いては、やいややいやと囃し立てて楽しそうに去ってゆく。
それを半眼で眺めながらいつまでも大通りの真ん中に突っ立っている詠に痺れを切らしたのか、お姉様方が笑顔で手招きを始めた。
「刀衆の情人ちゃん、こっちへおいでなさいな」
「水菓子をおあがりよ」
色とりどりの着物に囲まれながら、烏天狗はもみじよりも小さな団扇で首筋を扇いでいる。
「たのしいぞ! おまえも来てみろ!」
「~~~~ッ!」
如何に強靭な堪忍袋にも限界というものがある。詠は長椅子に突撃するようにして烏天狗の前に走っていくと、団扇を持つ右手を掴み上げた。
「いい加減にして!」
詠に引っ張られて、小さな下駄が地面に着地する。
と同時に――、どしゃっ! と潰れた音を立てて、烏天狗は地面に転がってしまった。
急に喧騒が遠ざかった。女たちが固唾を呑む音が重なり、やけに大きく詠の耳朶を打つ。
「ご、ごめん……」
音の消えた店先で、烏天狗は四つん這いになりながらゆっくりと顔を上げる。秘色色の大きな両眼はみるみる涙で満ち始めてしまった。
ふっくらとした小さな両手が、詠に向かってめいっぱいに差し出される。
「…………、………おんぶ」
「…………、え」
「おんぶ!」
耳を劈くような甲高い声が、大通りに響き渡った。
結局詠は、烏天狗(小)を負ぶったまま灯影街の大通りを歩く羽目になってしまった。
当の烏天狗は詠の両腕の隙間から短い足をぷらぷらさせて、いやに上機嫌である。
「で、なんで僕を呼んだんです?」
「おおどおりを歩いてたら店主によびとめられた。ぼうや、ひとりで歩いてたらあぶないよー、ってね」
それを鬼火が見かけたわけか。
サイズ感という大事な説明がすっぽり抜けていたのはご愛嬌ということにしておこう。
「元が烏天狗でもやっぱ危ないんだ?」
妖怪たちの中に、坊やが独りで歩いていたら危ない、という概念が存在することを初めて知った。
そもそも詠は、子どもの形をした妖怪を一度も見かけたことがない。現に今も、幼児を背負って大通りを歩いていても、こちらを気にかける妖怪は一匹たりとも存在しないのが妙である。
いや、こちらを見るには見るのだ。しかし皆一様に視線をこちらに向けたあと、なんだいつもの光景か、とばかりに挨拶もそこそこに詠たちの脇を擦り抜けてゆくのである。
「で、なんで身体が縮んだんですか?」
「ケンカにまけたんだな!」
んなわけあるか! とは思っても口に出さない詠である。出したら面倒なことになりそうなので、へ~とだけ適当に返しておく。
「で、どこに行けばいいの? 灯影街のねぐら?」
「ねぐらにもどって何をする。ナニか?」
詠は両瞼を限界まで細めて唇を突き出した。
「あんたのソレが使い物になればいいですね。……幻界には潜れるの?」
「むりだな!」
(言うと思った……)
詠はまた、眉根をきゅっと寄せた。
溜息を吐きながら見上げた空は今日も相変わらず紫色をしていて、浅い橙色と交じり合いながら不可思議なグラデーションを描き出していた。
あの色が朝焼けなのか、はたまた夕焼けなのかはわからない。少なくとも月も星も一つも浮かんではいないので、コンクリートの世界の空とは違う場所に繋がっているのかもしれない。
時の流れが死に絶えた、墓場の空であった。
「とりあえずどっかで僕を休ませてくださいよ」
「きりきりあるけ、わこうど!」
中身は烏天狗には違いないのに、甲高い声で言われると、最早言い返す気力が湧き上がってこないのが不思議だった。
葛ノ葉には戻りたくなかった。九尾の狐に見られたら末代までからかい倒されそうだ。
なので仕方なく、詠は広間に向かうことにした。
「それにしても重たいなぁ。その下駄、鉛でも入ってるの?」
「ばかいうな、おれは羽みたいにかるいぞ」
からからと高い声で烏天狗は笑ったが、背中には米十俵でも背負っているのかと思うような重量感があった。踏み出す足が一歩一歩重く、次第に息が上がってくるのを感じる。
前屈みになりながら灯影街の大通りを詰め所と反対方向へと進み、漸く広場に到着した頃には、詠の全身にはどっぷりと汗が湧き上がっていた。
森の広場には今日も相変わらず大小の屋台が二十軒ほど、平台を囲むようにして立ち並んでいた。
あちらの世界のお祭りの屋台でよく見かけるような、焼き菓子に焼き餅、汁蕎麦に肉まんなど。あとは奇妙奇怪な焼き物が売られている。
焼き物は不気味だった。どこから眺めても形だけは海老や貝類なのだが、色が青くて脚が黒々としていたり、貝殻が虹色だったりする。そんな奇天烈なものをこれまた珍妙な見た目の店主が売っているものだから、殊更に不気味なのである。
そういう屋台が、鬱蒼とした竹林を円形に切り倒した空間の縁に、ずらりと並んでいるのが、森の広間と呼ばれる妖怪たちの憩いの場だ。
「おやじさん、これを一つくれ」
腰を下ろす場所を探していると、烏天狗が飴屋の主人に声を掛けた。
「おやまあ、烏天狗の旦那! いったいどうしちまったんです、人間におんぶされて」
店の主人はぬめぬめと光った緑の顔についた両目をぎろりと動かした。それにふふん、と得意げに烏天狗が笑っているうちに、水あめが差し出された。
丸い最中種に透明な水あめが溢れるほど注がれている。どうやら育ち切らない小さな李の刺さった串で掬って食べるらしい。最近ではついぞ見掛けない、古風な出店菓子であった。
飴を貰った烏天狗は店主に礼を言うと、詠の背中から飛び降りて平台に向かって走ってゆく。小さな下駄が器用に砂利を弾くしゃりしゃりという音が、生ぬるい空気にやけに涼しげだ。
烏天狗が駆け寄ったのは、平台で行われる催しを観覧するためにあちこちに設置されている、竹造りの縁台だった。ぴょん! と子どもらしく飛び乗って、早速水あめを舐め始める。
「そんなの食べるんですかぁ?」
詠は烏天狗の隣に腰掛けた。
「ガキときたらこれだよ」
「いつの時代のガキだよ……」
詠は呆れたように笑うと、火照った肌を冷やすように上着をはためかせながら広間に目を遣った。
人影の疎らな憩いの場は、今日も光で溢れていた。
中央の平台は土を盛っただけの簡素な舞台だが、竹で組んだ屋形の真ん中には、巨大な深緋色の雪洞と、茄子紺の房の付いた揚巻がぶら下がっている。
その屋形のてっぺんから四方の竹林に向かって縄が無数に伸び、蘇芳、紺瑠璃、翡翠、山吹……、色とりどりの色紙で包まれた雪洞が、蝋燭の温かな熱を内側で光らせながら、生ぬるい風の中で穏やかに揺れているのだ。
その光景は、あちらの世界に例えると、どこかの静かな大聖堂で眺めるステンドグラスの光に似ているのだろうか。天に向かって無限に伸びてゆく暗い竹林の中に虹色の硝子玉を放り投げたような、煌びやかな美しさだった。
「平和だなぁ……」
美しいが、永遠に変わらない光である。
ぼんやりと呟いた詠の声は、灯りに吸い込まれるようにして空に消えていった。
刀衆へ転属して灯影街をねぐらにするようになってから、十年の年月が過ぎ去っていた。
気が付けばあっという間だったが、思い返してみれば、過ごした一日一日は泥のように重たく詠には感じられていた。
灯影街には時間の概念が存在しない。
妖怪には寿命が存在しないから、こちら側にその概念が無いのも頷ける。
だから時の流れが異様に穏やかで、おまけに朝と夜の区切りが曖昧だから余計に、詠には命の感覚が希薄になるのだろう。
そんな世界に生きてみて、最近になって詠には思うことがあった。
この代り映えのしない長い年月をこれからどうやって過ごそうか、ということである。
転属になって数年は、いつかは人間の世界に帰れるのだと思っていた。
あちらの世界では、軍部は未だに国内外の勢力とドンパチを繰り広げているらしい。たまに刀衆に送られてくる新入隊員から聞き出した情報では、率いていた部隊も詠が去った後に散り散りになり、同期も殆ど生き残ってはいないらしかった。
軍部はいつも若者の入隊を求めている。要は、兵隊が足りないのである。
向こうがそんな状態だから、優秀だった自分が連れ戻されない筈はない。ましてや、降格になった理由だって、元を辿れば――
「おいしいの?」
詠の視線の先では、小さな烏天狗が必死になって李で水あめを突いている。
「んいしい!」
丸い頬が満足げに膨らんだのを見て、詠は思わず笑った。
きっと詠はもう二度とあちらの世界には戻れないのだろう。時の狭間に閉ざされた街で永遠に生きることになるのだと思う。
それも良いのかもしれない。最近はそう思う。
しかしだとしたら、この身体は一体どうなってしまうのだろう。あちらの世界の時に合わせて、ゆっくりと老いてゆくのだろうか。
身体はまだいい。
心の方はどうだろうか。
毎日ここに出店される屋台や光り続ける虹色の雪洞のように、永遠に変わらずに居られるのだろうか。時の浸食に抗いながら、健やかにあり続けられるのだろうか。
(わかんないな……)
たまに不安が胸中をよぎる度に、詠は内心で深いため息を吐いていた。
烏天狗と懇ろになってからも、随分と長い年月が経っていた。
この十年で二人の関係はそれなりに変わってきたはずだ。それこそ、灯影街の妖怪たちが詠と鴉天狗が連れ立って歩いているのを見掛けても何の疑問を抱かないほどには、親密になったと思う。
烏天狗がどう思っているのかは知らない。
少なくとも詠は、あちらの世界に帰ろうという気概に霞がかかるくらいには、自分が変わったのだと思う。
それが、良くなかったのかもしれない。
深く関われば関わるほど、境界が曖昧になればなるほど、漠然とした焦燥感が背後から追いかけてくる。烏天狗が隣に座って居たとしても、時の流れを矢のようには感じないし、胸の隙間は埋まらない。
どうしてだろうかと、ここのところずっと考えている。
答えは簡単だ。
烏天狗もまた、こちらの世界の一部だからである。
(僕ばっかり、坂道を転がっていくみたい……)
そう感じるたびに胸の奥が引き絞られるように感じるのが、今の詠には殊更に堪えるのだった。
「考えてみてもむだだよ」
ふいに高い声音が耳を打って、詠は我に返った。
目の前では相も変わらず、大きな揚巻が生ぬるい風に茄子紺の房を揺らしている。
「何が無駄?」
「こちら世界で儚い命なんてものを探そうとしても、土台無駄な話なんだ」
詠はずいぶん低い所にある子どもの横顔に一瞥をくれる。
「妖怪に命の価値なんかわかるの?」
「わかるさ。俺はもともと人間が好きだ」
「どうだかな~」
見透かされたように言われて、急に目の前で揺れる雪洞が憎らしいもののように感じられ始めた。
「焦っているんだろうけど、おまえひとり踏ん張ったって戦局は何も変わらないな」
(ほらね、あんたは何も解ってない)
詠は膝の上で拳を軽く握りしめた。
悟られるのが悔しくて、足を組んで精々尊大に振る舞ってやる。
「あんただって、おちおちしてたら向こうに引っ張り出されるんじゃないの?」
「どうだろうなぁ?」
「………」
小馬鹿にしたつもりだったのに、気付けば詠の喉は小さく音を立てていた。
幼児の大きな丸い右目が、雪洞の灯りを映し込みながら笑っていたのである。
汗はとうの昔に引いていた。それなのに、じっとりと濡れたままの隊服の内側が、まるで氷にでも触れたかのようにしてひりつきはじめたようだった。
「おまえが未だに成功していないんだ、誰も俺を使役できるとは思わないな」
詠の視線の先で、小さな右手が串を持ち上げた。李に絡みついた透明なあめが、ゆっくりと糸を引きながら最中の底へと落ちてゆく。それを掬い上げるように、薄い唇が李にしゃぶりついた。
白い睫毛の先が、瞬きに揺れた。その奥に覗く丸い眼球……、虹色が煌めく秘色の世界の中に自分の姿がくっきりと映し出されているのを、詠は見てしまった。
「頃合いだろうから、ひとつ教えを授けてやる」
ぞっとするほどの美しさとは真逆に、烏天狗の声音はのんびりとしていた。
詠は何も言えずに黙り込んだ。
「無限の時を生きる秘訣は、『楽しむこと』だ」
烏天狗は勝手にこくりと頷いて、串の先に刺さった李を犬歯にかける。すぐにゴクリと細い喉が上下し、李の種はぽってりした腹の中へ落ちてゆく。
「十年変わらないものを想ったとて詮無く終わる。心が病む。病めばいつかは、後悔する。それならばいっそ、変わらないことを楽しんだ方が得だ」
「そんな、もんかな」
詠の声音は低かった。
その音にちょっと眉を寄せて、烏天狗は飽きたようにして最中を宙に放った。
「俺は今日こうやってあめを舐めた。おまえは明日もらーめんを啜る。それが一番、大事なんだよ」
「………」
子どもの手のひらから放たれた最中は、くるくると光の中を回転し、やがてと悲しげな音を立てて地面に落ちた。
詠は軽く、ごく軽く、唇を噛んだ。
所詮自分という人間は、この大妖怪の前では洟の垂れた童子に過ぎないということか。
転がり堕ちるのは詠だけで、烏天狗は今日も明日も変わらない。
変わる気など、毛頭ないのだろう。
「人間って、上手くいかないもんですね……」
詠は諦めたように瞼を閉じてみる。
肌を刺すような冷たさはどこかへ消えていた。かわりに、広間に漂うじっとりと肌に纏わりつくような生ぬるさが詠の頬に穏やかに触れては離れてゆく。
ふいに、か細い溜息が詠の鼓膜を打った。
小さな下駄が縁台から飛び降りて、一本歯が砂利を踏む音が少しずつ遠ざかる。
「なに呆けていやがる。帰るぞ」
「………ハ?」
瞼を開いた詠は、危うく眼球を地面に転がしそうになってしまった。
苦笑するような声音が、低く、穏やかだったのだ。
「なんて顔してる、ぶさいくだな」
平台の前でこちらを振り返る烏天狗には、最早幼児の面影はどこかへ飛び退っていた。
見事な長身に黒々とした大きな翼。はっとするほどの美貌を顔面に貼り付けたいつもの烏天狗が、着物の袖に両手を突っ込みながら悠々と立っているのである。
その意味に気付いた詠は、思わず腹の底から大声をあげていた。
「烏天狗って人間を化かすんだっ!」
まるで大声が巻き起こしたような風に、烏天狗の長い髪が巻き上がった。雪洞の灯りが銀糸の上を撫でるように走り抜けてゆく。
煩わしそうに横髪を抑えながら、烏天狗は笑った。
「どうだ詠、少しは気が晴れたか?」
弾けるような大笑であった。
(わかりにくいんだよ……)
詠は視線を彷徨わせると、さも面倒くさそうにして首筋を掻いた。
「ほんとにさ、――」
そして、ブランコから飛び降りる子どものように縁台から立ち上がる。
「――あんたのそういうとこ、キライだよ」
革靴の底がしゃり、と最中を踏みしめる音が竹林の中に響いた。
「お生憎様、俺はそんなに嫌いじゃない」
烏天狗の左手がこちらに向かって差し出される。
ふいに涼しげな風が吹いて、広間に漂う生ぬるい空気がすっとどこかへ流れて行った。
「烏天狗さんの教え、支離滅裂じゃないですか」
「俺様は大妖怪だぞ。嘘くらいつく」
「僕だけ騙されたのムカつくんですけど!」
「人間だからねぇ、仕方ないな」
差し出された左手を払いのける詠の口元には、いつしかうっすらと笑みが漂っていた。
竹林の空には雪洞が揺れている。
二人が去った縁台の傍には、潰れた水あめが砂利にまみれながら残されていたのだった。
Comments