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  • 執筆者の写真: rain
    rain
  • 2022年1月27日
  • 読了時間: 18分

◆このお話は2019年ハロウィンイベント『DUSK TiLL DAWN』から生まれた謎のお話です。

◆【死ネタ】【人体実験】【ゾンビ】【拘束具】等、ひとつでも苦手な要素がございましたら、閲覧の際はご注意願います。

◆本編に登場する国、都市、団体、研究、疾患等すべての事柄は、実在するあらゆるものとは無関係であり、差別や犯罪を助長する意図は一切ございません。



かなり長いので続きはpixivに投下してあります。





1 ミネソタ

「ほんとにこの道で合ってるのか?」  もう何度目かもわからない弱り切った声が左耳を打ち、リクターは弾かれるようにして運転席を見た。  ハンドルを握る青年の横顔がメーターパネルの薄緑の光を受けながらぼんやりと光っている。その向こう側を陽の落ちた秋の林がゆっくりと通り過ぎてゆく。 「……間違いない、と思います」 「そのメールってのが怪しいんだよな」  重ねて訴えられると急に不安が湧き上がって来て、リクターは血で汚れたジャンパーの胸ポケットからペンライトを取り出した。電池の残りが少ないのか、細い光は何度もちかちかと明滅を繰り返しながらグレースケールでプリントアウトされた地図の上を辿る。暗記している住所とは合致している。いや、正しくは、暗記している住所の周辺に一か所しかない森への入り口が、現在地に合致しているのだ。 「それにしても……、さっきから妙だな」  リクターは顔を上げると、ペンライトを消して青年の横顔を見つめた。彼の表情は恐ろしいほどに静かで、時折眼鏡の奥を、林の奥から長く伸びた枝の影が通り過ぎる。 「町から逸れてこの小道に入った途端に、ギャザードの気配が薄れてないか?」 「そういえば……、そうかもしれません」  リクターは助手席から窓の外の暗がりを見遣った。  じりじりと小石を巻き込みながら、二人を乗せたピックアップのタイヤは林の中を進んでいた。夕日は一番近くの町を出る前にとうに沈みきっていて、陽が沈めばギャザードの動きはいつもより愚鈍になるのだが、それでも唐突に林の中から人影が飛び出してくることもある。特にこんなふうに人里を離れた山道だと、ヘッドライトの光や車のエンジン音に引き寄せられて大群が現れることもしばしばだ。そんな様子が全くないのが、言われてみれば少し妙ではあった。 「もしかしたら、この林自体に何か仕掛けがあるのかも……苦手なものとか、音とか、ギャザードの弱点を知ってる可能性は高いですね」 「確かに。曲がりなりにも専門家だしな」 「とにかく進んで下さい」 「オーケー! 舌噛むなよ!」  ピックアップの運転手、ヤマーソンは軽く頷くと、景気よく左の拳を突き上げた。  とはいうものの、相変わらず車の進行スピードは時速ニ十キロにも満たないほどにゆったりとしていて、リクターはくすりと笑った。  この男のこういう性格が面白い。飽く迄も石橋を叩いて慎重に事を進めようとするのが、言葉を簡単に裏切っている。 (慎重に動いても、無駄かもしれないのに……)  車のヘッドライトは林の中を延々と続く小道を照らしている。背の高い針葉樹の合間、所々に低木が生い茂り、その低木が車の行く末を拒むようにして小道にまで張り出して倒れている。長年使われていない道なのだろう。少なくとも頻繁に車が通る道ではない。その事実がよく窺えるような、鬱蒼とした小道だった。 (ほんの少しだけど……覚えてるかも………)  車の振動に揺られながら、リクターは胸の中で己の記憶をたどり始めた。  リクターには幼いころに、山の奥で暮らしていた期間があった。  ログハウスのようなぼろ小屋に、昔ながらの手押し井戸。ガラスの覗き窓のついた玄関扉を開ければすぐにダイニングテーブルが置かれ、子供の頃の記憶の中に在っても狭いリビングには、古めかしい薪ストーブがあった。リビングから二階へ続く隙間だらけの階段を上れば、目の前には大きなベッド。バスルームは寒くて、沸かしたお湯を継ぎ足して入っていた。そのへんで切り倒した木で継ぎ接ぎされたウッドデッキの向こう側にはこじんまりとした畑が広がっていて、夕飯の前になると薪を割る音が耳に響き、美味しそうなパンの香りにお腹がぐうぐう鳴るのだった。 (覚えてる……十五年以上前のことなのに……)  昔を懐かしむリクターの右手に握られているのは、手紙だった。  丁度一年前の二〇四八年十月三十一日、この世界が唐突に終わった。  いや、新しい世界が始まったのか。  世界中に『ギャザード』と呼ばれる不死者が溢れかえったのである。  彼らは遺伝子改造された特殊なウィルスベクターに感染した一般市民だった。ギャザードに襲われた人間たちはたちまちウィルスベクターに感染し、異形のモノに姿を変えながら、街中を徘徊し始めたのである。  リクターが暮らしていた、W.R.U本社と傘下の総合病院のあるマサチューセッツ州セントラル市は、あっという間にギャザードに占拠された。  リクターは昼過ぎにラボをこっそり抜け出して、ラボの真上に建っている総合病院に入った。そこで約束の人と落ち合うことになっていたため、暫く探しながら病院の中を歩いたが、気付けば何やら辺りが騒がしくなり始めた。そして、病院内がウィルスの罹患者に襲撃されたことを知ったのである。  それが午後三時前辺りのことで、午後五時にはバリケード前でイオと知り合っていたから、時間にして四時間足らずの間に、感染者が増えたようだ。  感染力の強さ、罹患後の初期症状、情動的な捕食行動。そして頭部に損傷を与えなければ活動停止に至らない、ある程度の不死。  どれをとってもW.R.Uのラボで以前から噂になっていたものばかりで、バリケードの前を右往左往しながら気が気ではなかった。  あの日なぜリクターがラボを抜け出してセントラル総合病院を訪れたかというと、ある人たちから呼び出しを受けたからだった。  あの日の前日、十月三十日のことだ。朝起きると、ラボにある自室に手紙が届けられていた。  リクターは子供の頃からラボの中で監視されて育ったため、いつも本社の検閲済みの書面で遣り取りをしていた。だからあの朝も、またいつものように、いつものような日常的な話題が綴られた手紙が届いたと思ったのだ。リクターは嬉しくなって、すぐに封を切った。  ところが、白い封筒に書かれていた内容は、何かとても、胸の奥がざわつくような嫌な雰囲気がするものだった。 『 Oct.30 16:00  セントラル総合病院にて待つ。 君に真実を教えるよ 』  眉根を寄せて封筒を裏返してみれば、差出人には連名でこうあった。 『Dr.Y Dr.M』  やはり、何かが変だった。  いつもはどちらかひとりの名前で手紙が届くのに、この日は連名で、しかも監視の目の届くラボではなく、ラボの上に建っている総合病院にまで上がってこい、というのである。  総合病院へ赴くには余程の理由が必要だった。他の研究員はどうか知らないが、リクターには、余程の理由が必要だったのだ。  病院まで上がってこいということはつまり、人目に付かぬように脱走してこいということと同義だ。あのドクターが、リクターの身の危険を顧みずにこんな要求をするなんてありえない。だから、胸の奥がいやなふうにざわついたのである。  結局ドクターたちには会えなかった。  イオやソーマス、ヤマーソンと共に特殊部隊の救助ヘリに乗り込み、I.DOLの拠点、セクションベータまで移送された。  問題は、その後である。  リクターたちは、ノースカロライナの山脈国立公園の中に建てられたセクションベータに、民間人の生存者として時身的に身を寄せた。  セクションベータには大陸東部の生存者が集められていて、その数は六百にも満たない数だった。勿論部隊が見つけ出すことのできていない生存者も必ずいるはずなので総数として単純計算はできないが、特殊部隊の構成員と合わせても七百にも届かない程度なので、たった数日で大陸の北東部は滅亡したも同然だったのだろう。  経済基盤であるニューヨークやそれに準ずる大都市も文字通りのゴーストタウンに成り果てたという話だから、中央から西側に感染者が広がるのは時間の問題だった。そしてその予想は的中し、十月三十一日から一週間後にはアメリカが、一カ月後にはアメリカ大陸全体がウィルスに汚染された。  リクターはセクションベータに半年ほど滞在していた。  学校に通ったことがなく、物心ついた後も殆ど地下に広がるラボの外に出たことはなかったから、大勢の人が身を寄せながら生きていて、友人と呼べるような存在に囲まれた生活というのは物珍しく、状況は悪いが楽しいと思えるような良い想い出になった。  しかしその生活が半年で終わったのは、ノースカロライナの山中、セクションベータのアドレスに、リクター宛てに一通のメールが届いたからである。 『 リクター。元気でいるかな?    今日はとても寒いよ。明け方に雪が降ったんだ。   温かいスープを作っておくから、早く帰っておいで 』    メールアドレスは見たことがないものだったが、文面の最後には『Dr.Y』の記載があった。その後によくわからない文字列とアルファベットが並んでいて、組み替えていくとフィボナッチ数列の暗号になっていた。子供の頃に数列を習ったことを思い出し、ラボで遣り取りしていたような日常会話の文面に懐かしさを覚え、このメールは間違いなくあの人からの連絡であると、そう確信を得た。  解析した暗号を地図に照らし合わせてみると、ミネソタ州のある一点を示していることがわかった。衛星写真上では、どこまでも広がる緑の中に一軒の納屋のような小さな小屋が建っていた。  リクターは独りで旅立つことにした。  このメールはドクターからの救援信号ではない。もしS.O.Sならば、暗号にしてメールを送ってくる意味が無いからだ。寧ろ知られたくないのだろう。そして、リクターにここへ来いと言っている。  独りでドクターたちに会いに行こうとしていることを、病院から一緒に避難し友人になった、イオ、ソーマス、ヤマーソンにだけ打ち明けることにした。  ソーマスは一緒に行きたがった。イオは仕方なく、それに賛同した。それを見兼ねたヤマーソンが、二人一緒に基地に残らせる代わりに自分が行くと言い始めた。  リクターはそれを快諾した。最初に会った時から、ヤマーソンのことを知っているような気がしたのだ。子供の頃に会ったことがあるような、とても懐かしい感じだ。もしもその直感が正しいのならば、ヤマーソンはラボの出身者ということになる。真実はどうかわからないし、ヤマーソンにもわからないだろう。だから、二人でドクターの元を訪れることができれば、きっとヤマーソンの為にもなる。そんな気がしたのである。  かくしてイオとソーマスを無理やり基地に残して、リクターとヤマーソンは半ば脱走するような形で部隊のトラックを盗み、ノースカロライナを脱出した。  そして、荒廃した街中を爛れた身体を引き摺りつつ彷徨う死者の中を隠れるようにして進みながら、一カ月かけて漸くケンタッキーとイリノイの境に到達した辺りで、二人の耳に悲報が飛び込んできた。  セクションベータにギャザードの大群がなだれ込み、基地は崩壊、生存者は五十名にも満たず、その生存者も今はもうみんな散り散りになってしまったというのである。  イオとソーマスの行方は耳に入ってこなかった。ミックたち特殊部隊は生き残った民間人を保護しながら、大陸の西側にある別の基地に向かって移動を始めたらしい。そこにイオたちも合流しているのか、それすらも正確なことは何もわからなかった。  結局リクターとヤマーソンは、州境からまた北上し、ミネソタを目指した。今戻っても仕方が無いし、西にある基地といっても、情報をもたらしてくれた生存者たちもセクションベータから来た人たちではなかったから、場所までは詳しく知らなかったのだ。  半年かけて逃げ回りながら、車を何度か乗り換え、道すがら武器や食料を補給し、なんとかこの林の小道にまで辿り着いた。 (真実を知ったら、何か変わるのかな……?)  車の静かな振動に身を任せながら、リクターは溜息を押し殺した。  ドクターは『帰っておいで』と言っているが、あの納屋のような、ログハウスのような小さな小屋に戻って、そこで一体何をリクターに教えてくれるのだろう。リクターだけではない、ヤマーソンの過去に関しても、何か明かしてくれるのだろうか。  ドクターたちは無事でいてくれるのだろうか……。 「ん……、何かある。………、門か……?」  考え込んでいたリクターの横で、ヤマーソンが声を上げた。先程から急に視界が開けてきたように感じられていたのは、敷地に近付いてきたからなのか。フロントガラスに貼りつくようにして目を凝らしてみると、ピックアップのボンネットの向こう側にぼんやりと、鉄の門扉のようなものが見えた。 「外に出てみます」  リクターはジーンズの尻に拳銃が一挺入っているのを確認すると、車が止まるか止まらないかのタイミングですぐさまドアを開けた。滑るようにして助手席を降りると、運動靴の底を受け止める地面は厚い草に覆われていて、草丈はないものの、それなりに歩きにくい。  刑務所の牢屋のように組まれた背丈ほどの金属の門にしがみ付きながら、真っ暗闇の中に見える家屋の影に目を凝らす。ちらちらと橙の小さな光が遠く、何かの裏に見え隠れしているような気がして、リクターは呟いた。 「灯り……?」 「誰か居るのか?」  車を降りて来たヤマーソンが門の向こう側を同じように見たが、その時にはもう灯りは見えなくなってしまっていた。 「見間違いかもしれません……」 「扉、開けられるか?」 「鍵は掛かって、ない、みたいですね……」  ペンライトの灯りだけではよく見えないが、二本の支柱に支えられた金属の門は一枚を押すか引くかして開けるようで、片方の支柱の合わせ目に鍵は掛かっていなかった。向こう側に押し遣ってみるとびくともしないが、こちらに引くと、少しだけ軋みを上げて動きがある。  リクターが力いっぱいに引いてみたが、軋みをあげるだけでびくともしない。見かねたヤマーソンが手を貸してくれて、二人で思い切り引いてみる。すると漸く、合わせ目がガタン! と大きな音を立て、扉が動き出す。 「暫く開けられてないんじゃないか? 錆びてくっついてたみたいだ」 「………」  門扉には錆びて表面がぼろぼろに剥がれた鎖が巻き付けられていて、それは確かに、鎖の経年劣化を物語っていた。頻繁に使われてはいないのだろう。 「草の丈がすごいな……荒れ放題だ」 「車は置いて行った方が良いみたいですね……」  ヤマーソンの言葉に、リクターは頷いた。  一度車に戻ってヘッドライトを消し、バックパックを引っ掴んで車を後にした。  記憶が確かなら、門扉から小屋までは真っ直ぐに進めばいいはずだった。リクターは膝小僧の辺りまで伸びた雑草をがさがさと音を立て掻き分けながら、真っ直ぐに進んでゆく。幸い、小屋への細い道は他よりは多少踏み慣らされていたのか、草の背丈が少しは低い気がする。 「足を取られるなよ。襲われたら逃げにくい」 「はい」 「敷地全体が柵で囲われてるのか?」 「そうだと思います。この敷地の外に出た記憶はあまりないので……」  尤もその記憶は十五年も昔のことだから、どこまで確かかわからない。それでも、小さなログハウスのような家の輪郭が細いライトの向こうに浮かび上がって来た時、リクターの胸の中には、泣き出したいほどの郷愁に襲われていた。  瞬きの間に、辺り一面が光に満ち溢れた。 「ドクター!」  歓声を上げながら、リクターのすぐ真横をぶかぶかのシャツを着た子供が駆けてゆく。 「こら、走るんじゃない」  後ろからのんびりとした声が掛かり、それでも子供の足は止まらない。ガスマスクのベルトからはみ出した伸ばし放題の赤毛を揺らしながら、小さな背中は玄関の前の木で組まれた階段を駆け上がっていく。 「ドクター! おかえりなさい!」 「ただいま~! いい子にしてたー?」  物凄い速さで飛び掛かるようにして抱きついたのに、玄関前で両手を広げていた青年はびくともせずに子供の身体を抱き上げる。 「いい子だったよね。松ぼっくりをいっぱい拾ったよ」  リクターの横を白い影が通り過ぎた。長い髪を風になびかせながら階段を上がってゆく男の左手にはバケツが提げられていて、青い実がこんもりと押し込められている。 「何に使うの?」 「ジャムにする。祖母がよく作ってたのを思い出したんだ」 「リクターも木を揺らしたの!」 「頭に落ちてこなかった? 大丈夫?」  心配そうに子供を見下ろす優しげな笑顔が懐かしくて、喉の奥が締め付けられるような感覚がした。 「リクター。おい、リクター!」  呼ばれて一度瞬きをすると、辺りは暗闇に戻っていた。  気付けばヤマーソンに左腕を思い切り掴まれていて、リクターは草むらの中で足を止めた。 「灯りが、中で光ってる……」  玄関前の階段まで二十メートルかそこらといったところだろうか。曇った小さな窓の中から穏やかな灯りが漏れている。先程門扉の傍で一瞬見えた灯りはこの光だったのだろうか。 「大丈夫です。ギャザードじゃない……きっと、ドクターたちだ!」 「おいっ、リクターッ!」  ヤマーソンの右手が伸びて来てジャンパーの腕を掠めたが、リクターは気にせず草を踏み分ける。  ぼんやりと窓の向こうが橙に光っている。その暖かな色をした光には覚えがある。夜になるとこの小屋で灯されていた、蝋燭の灯りだ。  リクターは玄関まで辿り着くと、その前に続く木目の階段に足を掛けた。一歩体重を預けるごとに、ぎしり、ぎしり、と今にも朽ち落ちそうな木材が悲鳴を上げている。  ドアノブに指をかけ、少しの力で押すと、古い木の扉は思ったよりも楽に開いてゆく。その途端に隙間から漏れだす暖かな光に包まれて、リクターは全身を焼かれるようにして目を細めた。 「ドクター? 居ますか……?」  埃臭い室内を予想していたのに、吸い込んだ空気は澄んだ水のような香りを含んでいた。いや、違うか、空気が冷えているのだ。 「ああ、帰って来たね」  漸く目が慣れて来たころに、小さなダイニングテーブルの上の灯りから声があった。 「ガスマスクをしてないな? わるい子だ」 「ドクターッ……!」  目の前に、白い人影が立っていた。銀色の長い髪に白衣を纏い、眼鏡をかけた美しい容貌がうっすらと微笑んでいる。 「ユキンスキー博士ッ!」  気付けばリクターは駆け出していた。駆け出して、思い切り男の胸に飛び込んだ。 「おかえり、リクター」 「ドクター! 会いたかった……!」 「無事に辿り着いてよかった」 「今までどこにいたんですか? あの日から、ずっと、オレ……ずっとドクターからの連絡を待ってたんです……」  痩せた身体をきつく抱きしめて白衣の肩に頬を埋めると、男はしっかりとリクターの背中を抱き返してくれる。懐かしい感覚だった。たった一年と数カ月会わなかっただけなのに、何十年も会えなかったように思えてしまう。それほど、会いたくて仕方が無かったのだ。 「大きくなったな……昔は抱いて運んでたのにもう無理だね。背もすっかり伸びた。もう一人前だ……」  ほっそりした掌が髪を撫でてくれる。たったそれだけのことが泣き出したいほどに嬉しくて、リクターは白衣の背中を一度ぎゅっと握り締めると、そろそろと身体を離した。 「あの……、モモチェナ博士は?」 「ああ、モモなら――」 「うああああっ!」  悲鳴が上がり、リクターはその音量に肩を震わせて振り返る。ヤマーソンが玄関扉の木枠に掴まるようにして、暗がりに向かって銃を構えていた。 「やめてくれ。モモは起きたばかりだから機嫌が悪いんだ。おや――」  リクターを押し退けるようにして、男はヤマーソンを見つめる。 「ヤマーソンくんじゃない? 久しぶりだね……二十年ぶりくらいじゃないかな」 「アンタ、あの時の……いや、そうじゃない! リクター! 何か奥で動いて――」 「モモ、ヤマーソンくんも来てくれたよ」  男は喜々とした声でリビングの奥の暗闇に向かって声をかける。それに呼応するように、じゃらり、と闇の中から金属音が返事をした。 「覚えてる? 可愛がっていただろう?」  じゃらり、じゃらり、じゃらり。鎖が揺れ、地面を擦るような音に混じって、獣の唸るような声が鼓膜に突き刺さってくる。  闇の中に影が蠢いて、リクターは咄嗟に白衣の二の腕を掴んでいた。 「ドクターッ」 「心配しなくていい。モモだ。君が帰って来たのが嬉しいんだよ」 「そ、そんな……」  リクターは首を振った。首を振って、瞬いて、もう一度首を振った。  男はリクターの傍を離れると暗闇の中に恐れもせずに歩いてゆく。そして床にしゃがみ込むと、小さく何事かを呟きながら床に這い蹲る人影に手を貸して抱き起した。  振り返り、狭い部屋をこちらに向かって戻ってくる、その右手には、太い鎖がしっかりと握り締められていた。  リクターは目を見開いた。  見開いてしまった。 「ほらモモ、リクターだよ。漸く帰って来てくれたんだ……」  いや、見開くしかなかったのだ。  男の後ろ、鎖に繋がれた先には、凡そ人間とは思えないような人影がゆらゆらと身体を動かしている。  その肌はどす黒く変色し、焼けた壁紙が剥がれるようにして皮膚が剥がれ落ち、頬には白い骨が浮いている。口元には鉄の轡が嵌められて、目元は包帯でぐるぐる巻きだ。両腕は肘から先、前腕の中ほどがばっさりと切り落とされていた。 「リクター、モモだよ。抱きしめてあげて」 (ああ……、そうだったのか……)  リクターはこの時、すべて理解したような気がした。  そして、両肩から力が抜けていったのを感じてしまった。  異様な恰好をした人影は、獣のように呻きながらこちらに向かってずるずるとサイズの合わないジーンズを引き摺りながら歩いて来る。衣服がやけに綺麗なのが、どこまでも物悲しさをリクターに覚えさせるほどに、その身体はぼろぼろとあちこちが欠けていた。 「さあ、リクター。いつもみたいに再会のハグをして」  ふらふらと引き寄せられるように、リクターは呻き声に向かって手を伸ばす。 「やめろ! ギャザードだ!」  ヤマーソンが慌てて間に割って入り、リクターの身体を玄関に押し遣った。 「ギャザードじゃない。モモだよ。リクター、あんなに大好きで懐いていたのに、まさか忘れたのか?」  困惑した声に、リクターは微かに、唇の上に笑みを浮かべた。 「信じます。……でもその前に、約束通り、真実を教えてくれますか?」  男は一瞬ぽかんとした顔でリクターを見た。そして思い出したようにして、やおらダイニングテーブルの上の燭台に指を伸ばす。 「そうだったね。……昔話をしようか。――モモ、おいで」  蝋燭が狭いダイニングをぐるりと照らし、闇と光が一瞬で反転する。暖かい色をしてちらちら揺れる炎に照らされた人ならざるモノに向かって、男は白い指を伸ばす。  

 頬を撫でられたのは、どうみても一体の、ギャザードだった。






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