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冬はつとめて。





 明け方に、目が覚めた。

 寒すぎて大きなくしゃみが出てしまって身体が飛び跳ねたので、それで目が覚めたのだろう。

「さむ……」

 モモは両手で掛布団を手繰り寄せようとした。眠気で言うことを聞かない瞼を無理やり上げて掛布団の端を引っ掴んで……、ああそうだった、と思い出す。

(ユキのベッドでうとうとしてたんだった……)

 寒さでかちこちに固まった左手でスマホを見たらまだ五時にもなっていない。どうやら眠り込んで二時間も経っていないらしかった。

 寒さの原因を探して首を巡らせると、温かな羽毛の掛布団はモモの右側で盛り上がっていた。ユキが布団を巻き込みながら向こう側にくの字に曲がっているので、モモのからだが殆ど剥き出しになってしまっていたのだ。

(珍しいなぁ。いつもはオレが布団を取っちゃうのに……)

 モモは子どものころからそれはそれは寝相が悪いので、動いているうちに掛布団もタオルケットもぐるぐるからだに巻きつけてしまう。それが余計に熱くて動きまわっているうちにベッドから落ちる、なんてこともある。

 ユキと一緒に寝ていても、たまにどたん! と大きな音を立ててベッドから落ちる。さすがにユキを蹴り落とすなんてことはないけれど(たぶん)、暑くなってくるともう我慢できない。

 だからいつも、ユキに寒い思いをさせてしまうのだ。

 ユキはモモの赤ちゃん体温のことを冬は便利だと言って褒めてくれる。抱きしめてくれるし、温かいと笑ってくれる。

 けれども夏になって、気分があまり宜しくない時なんかは露骨に嫌がられたりする。それだけのことで引き下がるモモではないが、内心ではちょっぴり傷付いてしまうのだった。

「ユキー、寒いよぉ……」

 掛布団をちょっと引っ張ってみるけれど、ユキは肩までしっかり布団を巻き付けて微動だにしてくれない。仕方なく、モモはそっとスプリングの上を移動すると、フローリングの床に足を落とした。

 とたんに爪先から脹脛、腿に背中にと震えが走り抜けてゆく。

 十二月の真冬にエアコンの切れた部屋の中を裸で移動しようとする方が無謀なのか。そうは思っても脱ぎ捨てたTシャツに袖を通す気にもなれず、気合を入れて一気に立ち上がった。

「さんむっ!」

 リビングを通り抜けて洗面所に駆け込んで、洗面台の前にしゃがみ込みながら勢いよく扉を開ける。奥の方に並べられているブルーの箱に右手を突っ込むと、小さくて同じような色のブルーのボトルをひっつかんで浴室に飛び込んだ。

「かなしいよぉ……うぅっ!」

 シャワーのコックを捻っても出てくるのは水ばかりだ。水がぬるま湯に変わり始めるころには、肌を刺す寒さにも少し慣れてしまうくらいだった。

 洗面器にお湯を溜めて、ブルーのボトルを沈めておく。その間に身体と髪をザっと洗い、温まったボトルのプラスチックの包装を破って口を捻った。

 箱にはボトルが四本入っていたが、今日で三個目を使ってしまうから残りは一つだった。そろそろネットで注文しておかなければいけない。

(コレが何かって? 女の子用の、使い捨てビデです! 中出しされちゃったから洗わなくちゃいけないんだよね!)

 自分を励ますように通販の深夜番組のMCのようなノリで見知らぬ誰かに説明して、黙々と手を動かす。精製水の入った柔らかいボトルの中には、先の膨らんだ短いノズルが固定されている。それを外側に向けてボトルの口に固定して、アイスピックを握るように内側に向かって構え、大きく深呼吸をした。

 短いノズルは何の抵抗もなく粘膜を押し分けて入ってくる。数時間前まで散々ユキのを咥えていた部分だから、小指の太さ程度ではほとんど何も感じないのが少し面白い。

「いくぜっ!」

 ボトルの口が食い込むくらいできるだけ奥に突っ込んで気合を入れる。ぎゅっ! と一息に右手を握りしめると、なまあたたかい飛沫が粘膜の中を、奥へ奥へと遡ってゆく感触がした。

「きもちわる……」

 中出しされるのは嫌いではないけれど、この作業は何度やっても好きになれない。

 最初の頃は色々試してみたのだ。

 シャワーやウォッシュレットや専用シリンジなど、ありとあらゆるものを試した。色々試した結果、モモ的には使い捨てビデが一番手軽で便利だった。なので、ユキにお願いして洗面台の奥に置いてもらっている。

 しかもこの使い捨てビデは、洗浄以外にも素晴らしい効能がある。

(コレって、最強のマウントなんだよね……)

 おそろいのマグカップはたまたまおそろいだっただけとも言えるし、歯ブラシは二本出しておく人が居るかもしれない。メイク落としはユキも使うから役に立たない。モモの私物はユキの部屋にたくさんあるとメディアで公言しているから、ああ相方の荷物ね、で済まされてしまう。

 しかし使い捨てビデなんてものが男の部屋に置かれていたら、誰がどう見ても彼女持ち確定! である。ユキは絶対に使わないアイテムで、しかも中身が減っていたら、少なくとも一回はセックスしたということになるのではないか。仮にセックスしていなかったとしても、そんなデリケートなアイテムを男の部屋に置くような関係の女が出入りしている、ということだ。

 モモがユキの部屋に押し掛けて来た女の子だったら、間違いなく引いてしまう。めちゃくちゃキモい。同棲していて至る所に存在感があるならまだしも、こんなモノを堂々と置いてしまう神経がかなり尖っていて、できれば近寄りたくないとまで思ってしまう。

 だからコレはモモの中で、まだ遭遇したことのない、いるかどうかもわからない女への最強マウントアイテムなのだった。

 たぶんユキは何とも思っていない。

 置いていい? と聞いた時も、リュックに入れてて誰かに見られたら大変だもんね、とちょっとニヤニヤしながら言っていた。

 モモのこういう心の狭さを知っていたら置いてくれないかもしれないので、まだバレていないと思って間違いないだろう。ユキに対してよこしまな感情を抱いているということも、まだ知られてはいないだろう。

 少し待ってから腹に力を篭めると、内腿を伝って生温い感触が流れ落ちてゆく。

「あーあ、バイバイ……」

 こんなものがユキの愛情だとは思わないけれど、注がれたものがすぐに消えて無くなってしまうことに対して、毎回尋常ではない寂しさを覚えてしまう。

 女の子は、終わった後も何日かは好きな人と一緒に居られるらしい。流れて出てしまうまではお腹の中に留まっているから、数日間は好きな人の精子を保管しておけるのだ。

 でも男は無理だ。そもそも出すための器官だから一日も保存しておけない。しかもモモはお腹が痛くなってしまうタイプだから、終わってシャワーを浴びる時にすぐ流さないと大変なことになる。

 ユキとたった一日ですら、一緒に居られない。

 もっとずっと傍で感じていたいのに、すぐに流れて消えてしまう。

 どうすれば留めておけるのか。そんなバカなことをいつも考えている。

「やっぱキモいな、オレ」

 もう一回プッシュしてボトルの中身を使い切ると、さっさと風呂場を出た。

 明け方の部屋の中はすさまじく空気が冷えていて、湯上りの肌に触れると凍ってしまうのではないかと思うほどだった。フローリングまできんきんに冷えているものだから、裸足の足の裏がバスマットとスリッパの間に接地しようものなら、そこから電気が流れたのかと思うほどに震えが走ってゆく。

「暑い暑い! 寒くないよー!」

 ロケでユキを励ます時のように自分を励まして、鏡の前で笑顔を作った。

 寒いけれど、十二月は大好きだ。

 ユキの誕生日にかこをつけて泊り込んでも許される。朝から晩までずっと一緒に居られることが多いから、一年で最高の月だった。

 堂々と家に上がり込んでも疑問を抱かれない。料理を手伝わせてもらえるのも好きだ。いつもはモモが手を出すとちょっとイヤそうにされる手伝いも、ユキの誕生月だからとゴリ押しすればサラッと許してくれたりもする。ついでにお片付けやお部屋の掃除を頑張ると、ユキがありがとうとほほえんでくれる。美味しいお酒もたくさん飲める。

 たくさん飲んでよっぱらって、また飲んで、セックスをして……、朝目が覚めて、朝ご飯を食べさせてもらって、そのまま仕事に行く。こんな幸せなことがあると後が怖いな、と思えるような日常が続くのだ。

 もちろん十一月も大好きだ。モモの誕生日にはユキが盛大にお祝いをしてくれる。

 それを言ったら、年末年始も好きだ。カウントダウンも年始の生放送も仕事だけどユキと一緒に居られるし、その後のオフもだいたい一緒にしてもらえるから傍に居られる率が高い。

(オレって冬が好きなのかも……?)

 今まで深く考えたことはなかったけれど、四季の中では冬が一番好きかもしれない。

 ぴったりくっついても暑がられない、むしろ歓迎される季節だから余計にそう感じるのかもしれない。

 寒い寒いと文句を言うユキを宥めて、モモのコートのポケットにユキの両手をお招きできてしまう季節だ。着膨れでモコモコになったモモを、雪だるまみたいでかわいい、と笑ってくれる。何も頑張らなくても、ただ寒いという理由だけでユキがくっついて来てくれるからキュンキュンしてしまう。

(好きだなぁ……、冬)

 自分のために用意された季節かと勘違いしてしまう。ずっと冬でいい。なんだったら氷河期に戻って、ユキがモモ無しで生きていけなくなればいいのに。

(そんなこと、口が腐っても言えないけどね……)

 髪を乾かしてベッドルームの様子を窺うと、さっきまでこんもりと盛り上がっていた羽根布団の山は平らになっていた。寝返りを打ったのか、暑くなってしまったのか、ユキが仰向けに戻っていたのだ。

 ベッドの上に置きっぱなしにしていたスマホを裏返す。

 煌々と光る液晶画面は午前五時を告げていた。

 羽根布団をそっと捲り上げてからだを滑り込ませる。そのままユキに背中を向けて溜まったラビチャに返信して、ラビッターの同業者の呟きにアクションを返してゆく。

 いつもより時間をかけてゆっくりと作業をした。帰りたくなかったから、仕事をしている体を装ったのだ。

 寒いし、まだ夜明け前だから、今日はできれば帰りたくない。

 しかし悲しいかな、モモのスワイプは光の速さで作業を終えてしまった。スマホのバックライトの蒼白さが遠のくと、急にベッドの上がしんと静まり返った。

寝返りを打ってユキの寝顔を覗き込む。

 暗い部屋の中に響く寝息は健やかだった。カーテンの端から漏れている外の光は蒼白くて、ユキの長い髪が光を受けてぼんやりと輝いている。自分のからだが光を遮らないように、モモはユキの左腕を枕に沿って横にちょっと持ち上げると、その下に納まるようにして腹ばいになった。

 きれいな寝顔だった。

 まるで天使が休息のためにベッドに舞い降りたような、美しい寝顔だった。

「来年の冬は、もうセックスすることもなくなるね?」

 思わずくすりと笑いが漏れた。

 目の前に差し出されている尖った顎先を嗅ぐように鼻をくっつけてみる。ユキの冷えた肌はさらりと乾いていて、鼻先にじんわりと冷たさが広がってゆく。

 春が過ぎたらRe:valeは五周年を迎える。

 この四年と半年を無事に乗り越えて来た。活動も軌道から逸れることなくレールの上を走り続け、日に日にファンは増えてゆく。Re:valeのことをかわいがってくれるスタッフや先輩、頼りにしてくれる後輩もたくさんできた。

 何より、ユキの音楽を認めてくれる人が世界中に溢れている。ユキの音楽を愛して、大切にしてくれる人がたくさんいるのだ。

 幸せなことだ。

 恵まれていて、ありがたいことだった。

 モモの目の前には、かつて望んだ最高の世界が実現されているのだから、胸の中に満ち溢れる想いは感謝であるべきなのだ。

 それなのに、そんな自分では居られない。

 モモにとっての幸せな冬は今年で終わりを迎えるからだ。

 春を過ぎたら、Re:valeは五周年を迎える。

 モモは、『百』としての賞味期限を迎えてしまうのだった。

「ユキ、寂しい……?」

 呼びかけても、返事はなかった。

 代わりに穏やかな寝息がすうすうと、モモの鼻先に微かな揺らめきを投げかけてくる。

「寂しいわけ、ないか……」

 自嘲するような呟きにも返事は無かった。



 ユキが寂しがるわけがない。

 だって、モモはユキの恋人じゃない。

 ただのセフレなのだ。





◇   ◇  


 

 たまに自分のことを『メンタルが弱い』と公言する人が居るけれど、それってホントかな? と思う時がある。

 中には居る。本当に弱いひとが。

 小さなことで傷ついたり、本当に精神的な病気になってしまうひとが。

しかし、そういうタイプを除外して、モモの二十五年間の人生経験の中での統計から考えると、メンタルが弱いという人は高確率で『一周回って強い』ということが多い気がする。

「あの……だからっ! 百さんがお暇でしたら、あの……っ」

(だって、そうじゃない?)

 メンタルが弱いと言うのだったら、お互いの状況を考えずに局の廊下に呼び出したり、食事に誘ったりしないはずだ。どう見ても深刻な雰囲気で、食事もマンツーのノリなのに。それに、相手が困るかなと考えもせずに、自分のきもちだけ一方的に押し付けたりしないはずだ。というか、できない。

「何か悩みごとでもあるの?」

「悩みごとっていうか」

「オレで役に立てるかにゃー?」

「私、百さんのことが……」

 というか、今目の前に立ち尽くしている男がすごく困っている顔しいるはずなのだが、そういうのは目に入らないのだろうか。この後どういう展開になるか、考えたことはあるのだろうか。モモが告白を断って、それで関係がギクシャクしたりしたら仕事がしにくくなる、という可能性を考えないのだろうか。

 もちろん角が立つような断り方はしないし、彼女に辛く当たる気も全くない。ないけれど、それは相手がモモだったからで、この業界には色恋沙汰をネタにして弱みを握られるみたいなことがザラにあるわけで……

 だからこの子、目の前で必死にモモに訴えようとしているこの女子アイドル……、本当はめちゃくちゃに『強い』のではないか。そのまま世界一周の旅にでも出なよと思ってしまうくらいにタフなのでは。

(やっぱこういう『弱さ』ってよくわかんないや……)

 なぜなら、モモの考える弱さとは、例えば――

「モモ」

 相手を傷つけない程度の苦笑いを浮かべながらそんなことを考えていた時、後ろからユキが現れた。

「あっ、ダーリン!」

 モモは目の前で何も起こっていませんよというノリでコミカルにからだを揺らし、明るい声で振り返る。

「って、着替えんの早すぎない? ちゃんとシャツの裾ズボンに入れたの?」

「おまえは僕の母さんか」

「ヤダわも~お父さんったら~!」

「今のはおふくろの方だろ」

 ユキがくつくつ笑いながら傍に来てくれるので、内心でホッとしていた。なかなか引き下がってくれないから、どうやって会話を切ろうかと考え始めていたところだったのだ。

「――あれ、大事な話だった?」

 第三者の存在にさも今気付きましたとでも言うように、ユキは驚きながらちょっと両目を見開いた。

 こういうところ……、ウソかホントかわからないユキのこういう態度は、人に警戒心を持たせるのに良くも悪くも一役もかっていると思う。

 だって、廊下を曲がった時から女の子の姿が見えていたはずだ。見えていなくても声は聞こえていたはずだから、今気付きましたという態度はさすがに厳しいのだ。

 案の定彼女は視線を泳がせて言葉を濁した。見ていていっそ可哀想になるくらい動揺するので、モモはすかさずフォローを入れておく。

「今度みんなでご飯行こうね~って話してたんだよねー?」

「いえ、私は――」

「もちろん、オッケーだよ! 調整してまた連絡するねっ!」

 大きく手を振りながら満面の笑みを貼り付けて、ユキの腕にさっと右腕を絡めて踵を返す。呼び止められる暇も隙もないくらいぴったりとユキに寄りかかって、モモは足を動かす速度を速めた。

「あんな清純そうな女の子に告白されるなんて、モモも隅に置けないな」

 煌々とライトの灯った廊下を長い足で悠々と歩くユキは、揶揄とも不満とも判断できないような音で単調に言う。

「されてないって。たまたま撮りが重なって喋るようになっただけだよー」

 あの子、雑誌やテレビでは『奥手だから自分では声かけられない』とか『メンタルが弱いからすぐ病んじゃう』とか何かにつけて弱いから優しくしてくださいという感じのことを言っているのに、あれはメディア用のキャラ作りなのかもしれない。

 そういうことにしておけば、守ってあげなきゃ! と頑張ってしまうファンは多いだろうし、古き良き日本の女子アイドルという感じがしてウケがいいのかも。

「行っても良かったんだよ、食事くらい」

「なんでそういうこと言うのー? また無駄にパパラッチされて怒るのユキじゃん」

「怒んない怒んない」

「そこは怒れよ! 怒ってよぜひにっ!」

 モモが情けない音で突っ込んだのが面白かったのか、ユキは声を上げて笑ってくれた。

「そんなモテモテのモモさんの本日のご予定は?」

「トゲがあるなぁ」

「無いよ、そんなもの」

 ユキの横から覗き込むようにして見上げれば、口角がきゅっと持ち上がっている。

「あってほしいんだけどなー?」

「じゃあ、ある。そういうことにしておく」

「えー妬いてくれるのー? モモちゃんうれしいっ!」

「変更が無いなら帰るよ」

 はーい、と笑顔で可愛らしく返事をしたところでちょうど楽屋に戻って来た。サブマネ二人と明日の予定を確認して、すぐに楽屋から撤収する。

 明日は、モモは午後からゲスト出演するラジオの撮り、ユキは音楽関係のインタビューやアンケートが溜まっているらしく事務所に呼び出されていた。

 いつもの感じから推測するに、いいだけ陽が落ちてからユキがのそのそとベッドから這い出すか、夜になって焦ったおかりんが書類を抱えて押し掛けてくる未来が見えていた。

 どうしてそう思うかと言えば……、ユキの機嫌が悪いのだ。

 楽屋を出る時も、駐車場へと向かうエレベーターの中も、車に乗り込んだ後も、ユキは口元に薄っすらと笑みを浮かべたままだった。

機嫌が良いんじゃない。機嫌が悪いから、モモに覚らせないように、敢えてニコニコしているように見せている。

(でも、モモちゃんにはわかっちゃうんだなぁ、これが……)

「買い物行く?」

「いや、あるもので何か作る」

「お酒は?」

「ある」

 と、いうことは、このままユキの部屋へ直行して軽く食べるコースだ。

 二十二時を過ぎているから、今からどこかに寄って食事をしましょうという気分にはなれない。モモはデートと称して寄り道をしたいが、ユキの活動限界はそう遠くない時刻にやってくるだろう。

 つまり、食べる、セックスする、寝る。

 一つの無駄もなく三大欲求に忠実に従うのが今夜の計画だ。

 しかも、不機嫌なユキはセックスが長い。

 長いというか、激しい。限界まで体力を使い果たして翌日は夕方まで眠ってしまうだろう。

「ねえ、寄り道しちゃダメー?」

「場所によるかな」

「イルミネーション見たい!」

「こないだロケで見ただろ」

 助手席に滑り込んでシートベルトをバックルに差し込むと、ユキはすぐにシフトをドライブにぶち込んだ。

 ぐん、と一瞬からだがシートに押し付けられて、モモの喉から思わず高い声が飛び出してしまう。

「乱暴ですぞダーリン!」

「ワイルドに発車してみたよ」

「危ないでしょうがっ!」

「しっかり掴まっててね」

 舌なめずりしそうな横顔で言い捨てながらも乱暴だったのは発車だけで、車は地下駐車場のコンクリートを滑るようにして丁寧にスロープを這いあがってゆく。

「怒ってんのね、ユキ」

「怒ってないって言ってるだろ」

「えへへー」

 そういうことにしておこう。

 

 出会った頃に比べれば、ユキは随分成長したと思う。

 成長という言い方はずいぶん上から目線で失礼かもしれないけれど、五年前のユキはこういう時不機嫌を隠そうともしなかった。隠そうとしてもできない、という表現が正しいのか、自分の中に渦巻くきもちを持て余すような態度をとることが多かったのだ。

 その頃のユキに比べたら、今のユキはどこからどう見ても完璧な紳士だった。

 サブマネにも優しかったし、すれ違う局のスタッフや駐車場の警備員さんにまでにこやかだった。

 それにさっきの女の子にも。

(女の子、ね……)

 最近のユキは完璧な紳士だが、同時に面倒な男だった。

 自分はモモ以外の誰かにも平気で優しくするのに、モモがユキ以外の誰かと親密そうにしていると、急に機嫌が悪くなる。週刊誌にすっぱ抜かれた時にはもう静かなる嵐だ。見かけは上機嫌なのに、貼りついた笑顔が怖い。

 しかも、モモに隠し通せていると思っているのだろうから下手に弄れない。

 本人曰く、嫉妬じゃないらしい。

『飼ってる子犬が来客に懐いているのを見るのって、ちょっと複雑だよね』

 そう言ってのけたユキは、完璧な笑顔を綺麗な口元に浮かべていた。

 それも嫉妬じゃん? といつだったか笑ったが、本人曰く、そういうタイプの感情じゃないらしい。

(そうだったら嬉しいのにな……)

 赤い車は夜の街を滑る。

 助手席の窓の外に目を遣れば、きらきら光る街燈が深夜の水槽を熱帯魚のように泳いでいた。長い尾ひれをひらひら揺らしながら悠々と、モモの心中などまるで意に介さないように流れてゆくのだった。

 

 ユキの部屋に着くと、ごく軽い夕飯を頂いた。

 ラスクの上に飾られたスモークサーモンと玉ねぎ。スキレットに乗ったまま出て来た小さなハンバーグに、いつもの野菜スティック。ワインを一本開けるのに必要な量で、ユキもモモもそれなりに腹を満たせる程度の、そんな食事だった。

 ユキが先にシャワーを浴びて、交代でモモも借りる。ユキは髪を乾かすのに時間が掛かるから、その間に隅々までからだを洗って準備まで済ませて、洗面所の鏡の前でドライヤーに縛り付けられているユキの後ろを通り抜ける。

 ソファの上でワインをちびちびやりながら待っていると、しばらく経ってバスローブ姿のユキが隣に座り込んで来た。

「飲み過ぎじゃない?」

「だって、このワイン美味しいんだもん」

「ワインのせい?」

 そっと横髪を耳にかけられる。そのままグラスを奪われて口角に音を立ててキスをされた。

「おいで」

 小さく頷くと、手を握られて暗い寝室に導かれる。

 ユキの掌は温かくて、少し湿っていた。

(オレの知ってる弱さって、例えば、今この状況だよ……)

 まっすぐユキの部屋に帰って、食事をして、風呂に入って、当たり前のようにセックスをする。

 言葉なんか必要なくて、おうかがいなんてものもない。

 本当はドライブデートがしたかった。

 十二月に入ってから、街の至る所にイルミネーションが煌めいている。そこを二人で手を繋いで少しだけ歩きたかった。

 ほんの少しでいいのだ。恋人みたいな気分に浸って、それを心の栄養にしたかったのだ。

(でも、言えないんだよね……弱いから)

 言ったらどう思われるのか、想像しただけで胃が痛くなる。

(しかもオレ、セフレだし。ずっとそうだったし……)

 パジャマ代わりのTシャツを捲り上げられるモモは、初めてユキとセックスをした夜のことを思い出していた。



 ユキとそういう関係になったのは、二年目の冬のことだった。

 再始動して一年と半年。モモがようやくユキを呼び捨てにすることに慣れて、それが当たり前になったくらいの頃だ。

 酔っていた。

 これでもかというくらいに、酔っぱらっていた。

 べろんべろんのぐでんぐでんになりながら、右に左に身体を揺らしてアパートの鉄骨階段をなんとか登り切った。

 足元がおぼつかないくらいに酔っていたから、間違えてお隣さんの部屋のドアノブに鍵を刺そうとして、おかしいな? アレ? なんて言いながら笑った。しばらくドアが開かないことに首を傾げて、玄関の前でユキが育てていたシソのプランターが随分遠くにあるな、とふとモモが気付いて、それが面白くてまたバカみたいに笑った。

 気分は最高だった。最高以外の言葉が見当たらないほどに、ユキもモモも高揚していた。

 シングルチャートにも毎回ランクインできるようになったし、そろそろ冠番組でも、という話も持ち上がっている。その上あの日は新しいライブの開催が決まったのだ。

 二万五千人。二年目で、二万五千人を動員できる算段が立った。再始動時は二、三百人キャパのハコを埋めるのに精一杯だったのに、来年の夏には見渡す限りのファンが目の前に犇めいている。

 着実に積み上げて来た成果が、育てて来た種が芽を出した結果だった。

 だからみんな高揚していた。

 小さな事務所の小さな応接室の小さなテーブルに、乗り切らないほどの料理を並べて、お酒のグラスは手に持って。立ったり座ったり、歌ったり回ったり揺れたりしながら、みんな限界まで飲んだのだった。

 近所迷惑なんて考える余裕もないくらいに酔っぱらいながら笑って……、部屋に入ったとたんに、キスされた。

 ドアに鍵をかけて暗い部屋の中に振り向いたモモの腕が、後ろにぐいっと引っ張られる。頭が壁にぶつかったなという感覚がやけに遠くて鈍かった。

 そのぼんやりとした鈍痛の向こう側で、ユキの両眼が揺れていた。

 しらふだったら普通に躱せていたと思う。抱きしめられても抵抗できたし、いつもみたいに言葉で誘導できたはずだ。

 それなのに、できなかった。

 あの時のモモは頭の中が霞んでいた。背中に食い込んでくる腕と頬に降りかかってくる長い髪の柔らかさがミスマッチで面白いなと思ったくらいで、それ以外のことはどうでもいい次元の話に思えてしまったのだ。

 前フリも確認もなかった。

 かといって、自然さもなかった。

 ついでにいえば、あの時のモモの中にはユキに対する恋愛感情も芽生えていなかった。

 あるのはただ、皮ふの薄い唇が思ったよりもずっと柔らかかったのと、強引に割り込んできた舌が熱くて、濡れている……その感触だけだ。

 安アパートの狭い玄関でもつれ合いながら靴を脱いで、三和土に足を取られたモモを下敷きにして二人は床に倒れ込んだ。

 擦りガラスの向こう側で光っている街燈の灯りが、淡く部屋の中に射し込んでいた。その薄い水色の光を受けて、ユキの長い髪が暗い天井にきらきらと舞い上がった。

 絹のような綺麗な髪が自分の上に降ってくるのを見た時にモモは、難しいことはどうでもいいやと思ってしまったのだった。

 いつもより特別で、幸せな日だったから。

 最高の気分だったから。

 ユキが目の前で楽しそうにほほ笑んでいたから。

 だから、ユキもきっと、同じ気持ちなんだろう。

 たったそれだけの心の重なりを微かに嗅ぎ取って、それだけの理由で、身体まで重ねられた。

 それ以外に理由なんて必要なかったのだ。

 明け方に目が覚めると、畳の居間とダイニングとは名ばかりの狭い板張りの境目でうつ伏せのまま転がっていた。瞼を何度か瞬くと、すぐさま二日酔いに横っ面を張り倒されてこめかみに痛みが湧きあがってくる。

 顔を顰めながら視線だけで居間の腰窓を見遣ると、外はようやく日が昇り始めたくらいの薄暗さだった。まだ六時も過ぎていないのか、擦りガラスがぼんやりと灰色に光っている。

「さむ……っ」

 起き上がろうとして動かした手足は寒さでかちこちに固まっていた。膝までズボンを下げて尻を丸出しにしたまま眠り込んでいたからか、心なしかお腹が痛い気もした。

 腹、というか、尻が痛いのか。いや、背中か。それとも腰なのか。

 身体の中で縦横無尽に痛みが錯綜していて、どこがどう痛いのかすぐには把握できずにモモは茫然としながら上半身を起こした。

 ゆっくりと起き上がって振り返ると、玄関は目と鼻の先だ。

 板張りの上にコートを投げ捨てながらなんとか居間に移動した記憶はあるのに、ユキの上半身がようやく畳の上に乗っている程度で、股座を寛げただけの長い足がジーンズを穿いたまま玄関に向かってにょっきりと伸びていた。

(ユキさんって、ちんこまでイケメンなんだな……)

 腰骨の下までずり下がったジーンズのチャックの上に力なく乗っているのに、ユキの男の部分は堂々としていた。コレがさっきまで自分の中に入っていたという事実が嘘のようで、それでも身体に残った感覚が嘘ではないのだと、モモを背後から突きあげてくる。

 どんな表情を顔面に貼り付けて顔を合わせればいいか、まったくわからなかった。

 ありがとう、とか礼を言うべきなのか。初めてだったんです、と恥ずかしそうに言えば良いのか。それとも慣れている体を装って何でもなかったように振る舞うべきか。

 ユキを起こさないようにパンツとジーンズをゆっくり上げて、何事も無かったようにボタンも留める。手を動かしながらフル回転している脳味噌とは別の所で、セックスって痛いんだなぁ、とぼんやりと思った。

 現場で偉い人に誘われたことは何度かある。

 そういう嗜好はなかったから、というか恋愛経験もそれほどないしエッチな体験もそれほどないから、貼り付けた笑顔とトークで切り抜けてきた。後になって、自分がそういう欲の対象になるんだと驚きと気持ち悪さのようなものが湧きあがってきて、安心と安全のためにやり方を調べた。

 知識として知っているのと実際にするのとでは、両者の狭間には雲泥では済まされない差が存在した。

 相手がユキでも少し怖くて、心臓が音を立てて破裂したような感覚を覚えたのだ。

(でも、いいや……その方が忘れられる……)

 むしろユキの、完璧ではない人間らしい部分を見られたから、モモにとってはプラスかもしれない。

 しかも、今はもうモモにしか見せない、見せられない欲の部分だ。そう思うと、ユキにとってほんの少しだけ特別な人間になれたかのように錯覚して、それが心地よかった。

 そういうことにしておきたい。なにせ二日酔いも酷くて、頭も腹も、おまけに心も痛かったので。

「ユキ、起きて~」

 気を取り直して肩を揺すって、一番大事な証拠隠滅が為されていないことに気付いて声を上げて笑いそうになる。いそいそと自分のズボンを上げて、頬を叩いて笑顔を浮かべた。そしてもう一度、明るい声でユキの肩を揺すってみる。

「ユキ~風邪ひいちゃうよ~」

「ぅ……ん、……?」

 ユキの細い睫毛がゆっくりと瞬いて気怠そうに唇が動く。ピンク色の唇の皮ふが離れ、その隙間からきらきらした白い前歯がそっとと顔をのぞかせた。かと思うと、

「あたま、痛い……」

 なんて重低音で唸るので、モモは声を上げて笑った。

「あははっ! いっぱい飲んじゃったもんね!」

「モモ、」

「待ってて、今薬取って来てあげる!」

 軽快にステップを踏めるほど元気ではなかったけれど、シンクに小走りで近付いた。

 綺麗に整頓された上棚の中を探って頭痛薬と胃薬を取り出したところで、気力に限界が来た。キッチンのシンクに縋りつきながら薬を呑み込んだモモの耳に、追い打ちをかけるようにユキの言葉が流れ込んでくる。

「さいあくだ……」

 身体中に残った感触を押し流すほどの頭痛に襲われていたから、何が? とは聞き返せなかった。

 聞き返せなかったけれど、ごくん、と自分の喉が鳴る音に紛れて、その言葉ははっきりと胸の中に流れていったのがわかった。

 意味を考えないようにしてコップに水を汲んで、床に座ったまま頭を抱えているユキの目の前に差し出してやる。

「今日は午後から打ち合わせだったよ。まだ早いから、もう一回寝たら?」

 時間を掛けて何度か瞬いた薄青い両眼は、縋るようにこちらを見上げていた。まるで雨上がりの朝に路地裏で迷子になった子どものようだった。

 薬とコップを手に握らせてモモは居間の畳を踏みしめる。

「モモ……」

「今お布団敷いてあげるね」

 元気に言いながら押入れを開けて、力を振り絞って布団を降ろす。布団を降ろすどすん! と聞いたこともないような衝撃音が、明け方の部屋に響き渡った。

「モモ、あのさ――」

「あとは自分で敷いて! お風呂いってきますっ!」

 バタバタと足音を立てながら逃げるように風呂場に駆け込んだ。駆け込んで、蹲ってしばらく呼吸を整えた。呼吸を整えてシャワーに手を伸ばすと、尻から何か、ぬめったものが流れ出してきた。

 内腿に伝うそれにおそるおそる手を伸ばして、指先に絡めとられたその感触に背筋が震えた。

 その感覚は嬉しさじゃない。たぶん、悲しさの方だった。

 シャワーの音に紛れながら少し泣いてしまったから、モモはあの時、本当は傷付いていたのかもしれない。


「――何考えてるの?」

 ふいに思考を引き戻されて、モモは瞬いた。

 ベッドルームの天井にぼんやりと輝いているダウンライトが揺れ、途端に皮ふという皮ふがモモを快楽の海の中に突き落とす。

「っあ、ぅ……!」

「きもちいい?」

 ユキが顔を上げた。

 その動きで長い髪が肌の上を滑り、内腿から新しい感覚が押し寄せては背骨の奥を駆け上がってゆく。

「も、やめて……っ!」

「きもちよくないの?」

「もう、ダメ……ユキに舐められるの、ムリだからっ!」

 涙含みの声が漏れたのを耳にして、ユキは小さく笑った。その呼吸ですら薄い皮ふの上で波のような刺激に変わり、腰が勝手に跳ねてしまう。まるで水から引き上げられたばかりの魚のような、無様な姿だった。

「何が無理なの? きもちよさそうじゃない」

 モモはおそるおそる視線を自分の身体へと下げてゆく。

「ね、こんなになってる……」

 ユキは美しい笑顔でほほ笑んでいた。

 大きく広げたモモの股の間に腹ばいになって、濡れた唇から長い舌が這い出している。その先がモモの茎の裏側をちろりと舐めているのだ。

「っはぅ、ぁ、アんっ!」

 同時に奥を指先で抉られて、モモは仰け反った。

「あっ、あ、ダメっ、!」

「いっていいよ」

 笑い含みの声が内腿を擽り、強烈な痺れがモモの両足を強張らせる。内側から突き上げてくる熱量を逃したくて、もがくように腰が浮き上がった。

 ちゅぷり、と遠くで水音が立った。ユキの口の熱い粘膜に張りつめたものを呑み込まれたのだ。

「あっ、ううっ、あ、だっ……ダメっ、だっメえええっ!」

 直後に、モモの身体は空に放り投げられてしまった。天国が目の前に近付いたかと思うとすぐに地上へ墜ちて、落下の衝撃でシーツに腰がバウンドする。

 ユキは優しい声で言った。

「ねえモモ、入れていい?」

 両肩で息をしても足りないくらいに、モモは身体中で呼吸する。ままならない息を吐きながら、小さく頷いた。

 

 本当はあの時、聞き流せてなんかいなかった。

 気怠くて低い、ざらついた声だった。

 今でもあの声が耳の奥にこびりついている。

 ユキは後悔しているのだろう。そういう声音だったし、迷ったような顔でこちらを見上げていた。きっとモモとこんな関係になるはずではなかったのに、未だにこの関係を切れないでいるのかもしれない。

 もしかして、ユキは知ってしまっているのだろうか。

(オレのきもち、……)

 ほほえみながら抱きしめてくれるユキの背中にしがみついて、モモは浚うように、胸の奥底に沈めた石ころを拾い上げてみる。

 こんなふうにセックスを繰り返すうちに、最初の時には持ち得なかった炎が胸の奥に灯るようになった。

 その炎は、セックスの快楽に紛れながらそっとモモの傍に忍び寄って来た。

甘くて、きらきらしていて、からだじゅうを痺れさせる優しくて激しい。

 まるで麻酔薬だ。

 酒を呑んでユキに抱かれていると、寝室の天井にぶら下がっている丸いシーリングが宮殿のシャンデリアに見えた。シーツの皺の一本一本が小川のせせらぎのように妙にクリアで、カーテンの隙間から射し込む夜の光に舞う埃の一粒一粒が、まるで無造作にばら撒かれたダイヤモンドのように輝いて見えたのだ。

 いや、麻酔なんて可愛らしいモノじゃないか。

 トリップする、という言葉がふさわしいくらいの没入感をモモに与えてくれる、いうなれば麻薬だ。

 そしてその麻薬は、快楽に慣れ切った頃合いを見計らってモモに正体を現した。

 明け方になると酒と一緒に薬が切れる。そして胸の奥にちりちりと焦げ付いたような痛みが湧きあがって、そっとベッドを抜け出す頃には、寂しさと悲しさで立っていられなくなるほどにつらくなる。

 シャワーを浴びながら、どうしてつらいのかを考える。

 一瞬で流れ出て消えてしまうユキの残滓がどうして惜しいのかを考えてみる。

そうして肌を重ねるたびになんども考えて、心臓を燃やし尽くしてしまうほどの炎が何であるかを知った。

 麻酔でもない。

 麻薬でもない。

 宮殿のシャンデリアや小川のせせらぎでもない。

 ましてや、ダイヤモンドでも何でもない。

 恋だった。

 ユキに対する憧れや陶酔でもない。

 ただ単純な、『恋』だったのである。


 こんな話を聞いたことはあるだろうか。

 雑誌で読んだコラムの話だけれど、セフレを作る男というのは、良いなと思っている子と一番最初にセックスをしたら、その子と正式にお付き合いしたり結婚したりするような思考は生まれないらしい。ちゃんと付き合いたいと思った子は傷付けなくないから、最初から手を出したりしないのだそうだ。

 そして、後々面倒になるのを避けるために、告白をしないのがデフォらしい。

 それに対して、セフレになりやすい女というのはこうだ。

 自己肯定感が低いメンヘラで、押しに弱い。フットワークが軽いから呼び出しやすく、いつでもセフレからの連絡を待っている。仕事で忙しいとかの理由で出会いもなくて、忙しいのに相手に尽くしてしまう性格がセフレになりやすいのだそうだ。

 そういう女はたいてい、セフレのことを好きになってしまう。身体を重ねているうちに情が湧いて、身体だけと割り切れなくなってしまう。

 相手を独占したくなるのに、そもそも自分を好きになれないから、どうせ相手にも好かれないと思い込んで告白もできない。関係性を壊したくないから恋人にしてくれなんて言えないのに、相手からの連絡だけは待ち続けてしまう。

 セフレと恋人の判別ポイントはこうだ。

 セックス抜きのデートをするかどうか。

 セックス以外でキスをするかどうか。

 何でもない場面で手を繋ぐかどうか。

 そして最後に、「好きだよ」と言われるかどうか。

 セフレは都合のいい存在なだけ。甘い言葉に酔ってないで厳しい現実を見な。セフレの関係を続けないなら、絶対に相手を好きになっちゃいけないよ、とコラムは警告していた。

 この記事を読んだ時、モモは『ユキはそんな人じゃないもん!』と内心で叫んだのと同時に、『そうか~』と天井を見上げてしまった。

 どんなに望んでもオレはユキの恋人になれることはないんだなぁと、どこか納得してしまったのかもしれない。

 よっぱらって、流れでセックスして、ユキも「最悪だ」と白状していた。

 どう考えてもユキはちゃんと付き合いたいなんて思っていなくて、そう思っているのがわかったから、モモも逃げるようにして風呂場に駆け込んで無かったことにしようとした。

 無かったことにしようとしたのに、二回目もあった。

 二回目の時もそれなりに酔ってはいたけれど、もう無かったことにできるほどのアクシデントじゃなかった。

 終わった後も、起きた後も、その後もずっと、モモは笑い飛ばせなかったし、逃げなかったのだから。

その上で、ユキを好きになった。

 今のモモがタイムスリップできるとしたら、昔の自分の肩を叩いてこのコラムの存在を教えてやりたい。

 知ってる? こういうことらしいよ? これから先めちゃくちゃ苦しいけど、それでも良いの?

 と、一緒に雑誌と睨めっこしながら、自分自身と相談するのだ。

 そうすることができたら、一番最初の夜にちゃんと止められたかもしれない。 イヤだと首を振って拒めたかもしれない。どんなによっぱらってハイになっていても、ちょっと冷静になれよと自分に待ったをかけられたかもしれない。

 あの時は、ユキのことそういう意味で好きになるとは思っていなかった。だから怖かったし、心が散り散りになった。

 ユキさんはオレの神様で、オレはただの信者。

 恋愛感情を持つなんて分不相応だとわかっていた。というか、恋愛感情なんかなくてもユキさんのことが大好きだった。

 モモが死ぬまでずっと、ユキさんには神様で居て欲しかった。悪いところのある人間ではなく、何かのミスで地上に降りてきてしまった、神様でいて欲しかった。

 もちろん今だって思っている。

 ユキはモモの神様だ。太陽であり、宇宙の中心なのだ。

 そう在って欲しかったから、炎のように湧きあがってくる恋心をこれ以上ないほどの劫火で焼き尽くして、消し炭のカケラにした。そしてその黒い小石を心の奥底に沈めた。

 ふいに舞い上がって来ないように。

 二人の関係の間で、決して邪魔にならないように。

(でも、無理なんだ……好きだから)


「ンっ、ぁぅ!」

 口から変な声が転がり出た。

「痛かった?」

 ユキはすぐさま身体を起こしてモモの顔を覗き込む。

「きゅ、に……抜く、から……」

「ごめんごめん。我慢できなくなりそうだった」

 ユキは薄く笑いながら長い髪を掻き上げた。

 掻き上げた右手で尻をぺしぺし叩いてくるので、モモは渋々腰を上げてシーツの上に四つん這いになる。

「なに考えてた?」

「ん……、ぅう、ユキのこと、かんが――っああア!」

 腰を掴んで引き寄せられて高く掲げられる。すぐに楔が胎の中を貫いた。

 目の前がちかちかと明滅した。引き寄せて抱きしめた真っ白い枕カバーが発光しているみたいで、目が眩みそうになる。

「モモ」

「っあ、あっ、ぅ!」

 オレだって、好きな人に縋り付いて必死にアピールしたいよ。

 できるなら好きって告白したい。

 いつものふざけた感じじゃなくて、真面目な雰囲気で、あの女の子みたいに切羽詰まった感じで。

 オレだけを見て。オレ以外の人と笑ったりしないで。

 ラビチャもイヤ。通話もイヤ。

 オレを捨てないで。

 オレ、セックスだけじゃイヤだよ。

 ちゃんと恋人になりたいよ。

 好きって言われたいよ。

 愛してるって、ユキに思われたいよ……

 でも、言えない。

 強くないから。

 ユキを困らせたくない。

 応えられないものにイエスと言わせる仕掛けはいくらでも思いつくけれど、ユキにはそんなことしたくない。思いついたとしても実際には試せない。

 ユキに拒まれて自分が傷つきたくないのだ。モモの中に無限に広がっている、大きいように見えて小さすぎる世界がガタガタ音を立てて崩れるのが、怖いだけなのだ。

 どうせ五年で終わるのに、ただでさえすぐそこに見え隠れする終わりを自分から引き寄せるなんてことはできない。

(だってオレ、強くないから……)

「あっ、あ、ううっ!」

 胎の奥まで押し入られて、モモは高い声音で呻いた。ユキの節の立った長い指が腰に食い込んでくる。

「モモッ、締めすぎだ!」

「あっ、あ、だって、ぇ……!」

 バックはそんなに好きじゃない。

 ユキのは大きいし、正常位とは当たるところが変わるからきもちよさを通り越して少し苦しくなる。苦しいとからだが緊張して無意識に締めてしまって、だからユキはバックが好きだ。

 モモはそんなに好きじゃない。ユキの顔が見られなくなる。

 顔が見られないと少し怖い。

 まるでギロチンに首筋をセットされながらセックスしているみたいな気分になる。ただ慣ればかりが積み重なって、心が麻痺しているからきもちいいだけ。

 これは麻酔で、麻薬だ。恋という名の炎だから、いくら焼かれても痛みを感じないのだろう。

 大切な小石は隠してある。

 誰にも奪わせない。

 ユキにだって触れさせない。

「ははっ、エッロ……」

 ユキが背後で獰猛に笑った。腰骨に指が食い込んでくる。

 突っ張っていた両足が震えて、モモは瞼を閉じた。

 ベッドの軋む音。水音。

 肌が激しく触れあって弾ける音。

 ユキの荒い息遣い。熱。汗。

 ぜんぶが流れ込んでくる。

 エロい、はモモへの誉め言葉じゃない。だってモモが悪いみたいだ。モモがエロいからセックスを止められないみたいに言わないでほしい。

「ユキいっ、オレっ……!」

「うん、かわいいよ」

 縋るように名前を呼ぶと、背後でユキが優しい音で言った。

 かわいい、もこの場合誉め言葉じゃない。モモがかわいいからそれで全部オッケーです、みたいに思わないでほしい。

「ううっ、あ……ァ……」

 一瞬ぴたり、と辺りが静まり返る。直後にどっと、身体の奥が温かくなった。

 モモがエロくてかわいくて、きもち良くて全部オッケーなら、どうしてユキは機嫌が悪かったのだろう。

 笑顔を貼り付けて、にこやかに挨拶して、車を急に発車させて、なのにデートもしてくれない。

 こちらが正解を求められないのに、嫉妬しているみたいな表現をしないでほしい。

 期待させないでほしい。

(でも、言えないんだよね……、強くないから)

 ただ一回、面と向かってこう言ってくれたらぜんぶ報われるのに――

「モモ……、好きだよ」

 愛されていると思い込めるのに。

 



◇   ◇   


 

 これが今夜の顛末だった。

 家に帰って食事して風呂に入ってセックスして、ユキはすぐに寝落ちした。

 もともと長く眠る人だし忙しいから仕方ないけれど、そしてモモも一瞬落ちたからひとのことは言えないのだが、できれば少しだけお喋りがしたかった。間髪入れずに寝落ちされると寂しくてしかたがない。

 寂しさを紛らわすように、すん、と鼻先を押し付けたユキの首筋を嗅いでみる。

 動物みたいな仕草ですんすんと匂いを嗅いで、勝手にポジショニングした腕枕にすりすりと頭を擦りつける。ついでに、シーツの上にいつぞやのようににょっきりと伸びた長い両足に自分の左足を絡めて抱きしめた。

 それでも遣りきれなさが込み上げてきて、その虚しさを紛らわすように、またスマホに手が伸びた。

 薄暗い部屋の中にぽうっと青いライトが灯り、ユキの高い鼻筋が頬の上に影を落とした。

(寝顔とっちゃお……)

 フラッシュが消えているのを何度も確認して、スマホの中にユキを閉じ込める。

 気付けば、寝顔の写真ばかりが増えていた。

 ユキの寝顔はいつだって綺麗だ。

 天は二物を与えないなんていうのはウソだ。おもしろくて美人で音楽も最高なんて、どう考えても神様が意図的に与えているとしか思えない。

 すうすうと聞こえてくる寝息が穏やかで、明け方に目が覚めて寂しくなるたびにスマホに手が伸びてしまう。いろんな角度で何枚も撮る。

 ヤバいことをやっているなと思う。自分でもわかっているのに、止められないのだ。

 もちろん、スマホ本体には残しておかないようにしている。専用のメルアドを作って、そのアドレスのクラウドにアップロードして、本体の画像は消しておく。

誰かにスマホ見られてまずいことになるのはごめんだし、事故に遭って死んだりして、スマホのデータを全部見られてしまうのも厳しい。

 ユキの寝顔の写真なんてものが流出でもしたらユキの体裁が悪くなる。ユキの立場もわかっているし、秘密の関係だから誰にも言いふらしたりしない。

 そんなふうに手間を掛けてでも、寝顔の撮影を辞められない。

(今この瞬間に、ユキを独占しているのはオレなんだって思ったら、満足できるんだよね……)

 いや、違うのか。満足するというよりも、全能感のような良くない陶酔に支配されてしまうのだ。

 世界が自分の掌の中にだけ存在するような、夜空に浮かんだ星という星を全部集めて胸の中に納めたような、そんな感覚に酔ってしまう。

 ユキが自分と寝ているからといって自分が偉くなるわけではないし、トークや歌が上手くなるわけでもない。ましてや時が止まるわけでもないのに、まるでユキの隣にずっと居て良いんだと許されているみたいな気分になってしまう。

 良いわけない。五年で終わるから、終わりがあるから今の関係を続けているだけで、時がくればユキは在るべき場所に戻るのだ。

 その場所はきっと素敵な場所だろう。

 うまく想像できないけれど、モモには想像もつかないくらいキラキラしていて、ユキが心を痛めずに安心して好きなように生きられるところだ。

 その頃にはユキをテレビや雑誌などのメディアを通してしか見られなくなっている。たまにライブがあるけれど、五年目以降のRe:valeのライブだ。チケット戦争の倍率は今の比ではないだろうから、ファンクラブに入っていても当たるかどうかわからない。実際は、生でユキを拝める機会なんて殆ど無くなるのだろう。

 だから、今のうちに思い出が欲しかった。

 仕事ではなくて、自分がRe:valeの千のプライベートな時間に食い込んでいた時があった、夢じゃなかったんだよ、と思える証がほしい。

(こんな独占欲、ユキに知られたくないな……)

 またスマホをシーツの上に伏せてすべらかな肌に頬を寄せると、モモは小さく溜息を吐いた。

(ユキさんは、オレのこと忘れたりしないよね? さすがに忘れないよね? 大丈夫だよね……?)

 来年の冬、自分はどうしているのだろう。

 夜明けになるとあいかわらず、虚しさを持て余しているのだろうか。

 夏が過ぎてモモが相方から一般人になったら、モモのこと見るユキの目が変わったりしないだろうか。恋人になれるチャンスはないのだろうか。この子を捕まえておかないと、と思って貰えないだろうか。

 そんな希望を胸に抱きながら、頭の半分ではその考えを否定する。

 今までだって、タイミング的に都合がいいし、秘密を守れるという安心感があるから続いている。モモが芸能人を辞めたら生活はすれ違うだろうし、連絡がマメではないユキからのラビチャなんて来なくなるに決まっている。

(ん……? ユキとすれ違わないように、オレがずーっと自分の部屋に居ればいいのか? )

 名案を思い付いてしまって、モモは黒々とした睫毛をぱさぱさと瞬かせた。

 貯金はたくさんあるから、贅沢しなければそれなりに暮らしていける。もし生活に困ったらユキが絶対に起きてない早朝にバイトすればいい。そうしたら、ユキが「今会いたい」と思ってくれたタイミングに合わせられるのかもしれない。

 それだったらいっそのこと、徹底的にユキ好みの見た目になるのもアリだ。

 美容整形をしようか。

 くりっとした大きな目の童顔ではなく、鼻筋の通った美人系の顔になりたい。八重歯も必要なくなるから歯科矯正する。

 この顔で居る意味も無いし、チャームポイントも派手な髪型も要らない。

 元気なイメージも必要ないから、日焼け対策も徹底して美白をキープする。筋肉を落として、抱き心地が良いように少し脂肪を付けて、でも華奢に見えるようにダイエット目的でジムにも通おうか。

(ユキの好きそうなキレイ系になれば、随分変わったな? この子だったら付き合っても良いな! って……思わないかな?)

 居心地の良い綺麗な部屋をキープできるように心がける。整理整頓も掃除も苦手だけど、どうにか頑張る。

 観葉植物で飾って緑を多くして、家具もカーテンもラグも安心できるアースカラーに買い替える。

 料理もできるようになる。ちゃんと本を買って勉強する。

 ユキには及ばないだろうけど、お世辞抜きで美味しいと思ってもらえるようにたくさん練習する。早起きは得意だから、泊ってくれた日は美味しい朝ご飯作ってあげる。

(オレ、すごく良い恋人になるよ? お買い得物件だよ?)

 全身全霊で尽くすし、全力で楽しませる。文句も言わないし、なんでも受け入れる。

 いつも笑顔でにこにこしている。ユキが疲れたと言ったら、飽きるまで抱きしめてあげる。セックスをしたいと言われたら、どんなプレイでも熟せるように勉強する。

 今までだってそうしてきたから、何年後だって同じようにする。

 今度はRe:valeのためではなく、ユキのためだけに生きる。

 そこまで考えて……、この考えにはものすごい矛盾をはらんでいることに、モモは気付いてしまった。

(なんで会えること前提で話進んでんだろ……?)

 しかも、『ユキのために生きる』という前提がヘンだ。

 ユキさんのため、と思っている今の努力だって、結局は自分のためだったはずだ。

 ユキに音楽をやめてほしくなかったから。

 バンさんを見つけたかったから。

 Re:valeを有名にしたかったから。

 全部全部、モモのエゴだ。

 来年も会えること前提なんて、ありえない。五年で終わるからこそきっと、全力疾走で頑張ってこれた。この関係も続けられたのに。

「ユキ……、オレ疲れちゃった……」

 五年目が近付いて来ることにも、良い子で居ることにも。

 小石を隠しておくことにも、それをユキに見せびらかせる未来を想像してしまうことにも。

 ユキの寝顔を眺めては自分のものだと慢心して、それでも不安だから使い捨てビデなんてものを置いてみて、見えない誰かを牽制するのを止められない。

 モモの全部はユキのものでも、ユキはモモのものじゃない。

 ユキに『人間』だと思われなくてもいいのだ。

 一カ月通い詰めた時だって、最初からそんな扱いは望んでいなかった。ユキが音楽を辞めずに居られるように、自分はそのための道具で良いと思っていた。

 だから、良い子だなんて思われなくていいし、良い人間だなんて思われなくていいのだ。

 そう思いながら総てが始まったのに、終わりがすぐそこに見え隠れし始めて思うことにキレイな感情など一つもない。

 人間として、なんて安易なものじゃいやだ。

 ユキの中の『特別な人間』になりたかった。

 特別な人間、なんて語感がなめらかすぎる。そんなぼんやりとしたすぐに溶けるアイスクリームみたいな特別感じゃ満足できない。

 パートナーなんて広義の言葉では誤魔化せないほどに、ユキを自分のものにしたい。

 ユキに愛されたい。

 モモの全部はユキのもので、ユキの全部はモモのもの。

 そういうふうに、ユキの全部で愛されたかった。

「ユキ、寂しい……?」

 もう一度呼びかけても、返事はなかった。

 あいかわらず穏やかな寝息がすうすうと、モモの鼻先に微かな揺らめきを投げかけてくる。

「寂しいわけ、ないか……」

 自嘲するような呟きにも返事は無かった。

 ユキが寂しがるわけがない。

 すん、と小さく鼻を啜ると、ユキの匂いがした。

 汗をかいた後の甘い匂いとシャンプーのいい匂いが交じり合った香りは、胸の奥を切なくさせる。

(そんなわけないんだよ……期待するなよ、オレ)

 瞼を閉じてユキの香りに身を任せながら、自分自身に言い聞かせる。

 そんな妄想は実現しない。

 だって、モモはユキの恋人じゃない。

 ただのセフレなのだ。

「ねえ、ユキ……、ずっとオレのところに居てよ……」

 ユキの身体に回した左腕がぎしりと軋んだ。目頭がかっと熱くなって、鼻の奥がつきんと痛み始める。

「仕事なんてしなくて良いからさ、ずっとオレの部屋に居て?オレだけのものになってよ……」

「ちゃんと――」

 涙が一粒ユキの素肌の左腕に転がり落ちた時だ。

 かさり、と掛布団が揺れた。

「――帰って来る……、んだ、ろうな……」

「起きてたのっ?!」

 モモが飛び跳ねるように上半身を起こすと、ユキはうるさそうに眉根に皺を寄せた。そして長い右腕をモモに向かって巻き付けてくる。

「なんじ……?」

「きゃぅ!」

 腕に押し潰されて、(押し潰されたかのような悲鳴を上げて)モモはまたユキの首筋に鼻を押し付ける。

「うわ、まだ六時だ……さいあく……」

 抱きしめられたと思ったのはモモだけで、ユキは枕元に投げ捨ててあったモモのスマホを探り当てると時間を確認しただけだった。

 背後でゴトン、と音が上がる。ユキが怒りを込めて放ったスマホが床に滑り落ちたらしい。

「ねえ、起きてたの?」

「ねてる……」

 すう、と大きな溜息が額を揺らして、思い切り脱力した右腕が圧し掛かってくる。

 モモの睫毛が肌の上を擦るのがくすぐったかったのか、ユキが唇の上で笑った気配が薄闇の中にやけに大きく響いた。

「………」

「………」

「不安か?」

 ドキッとした。

 目を見開いてユキを見つめると、すぐ目の前で瞼を閉じているユキの表情は静かだった。

「わかる……?」

 おそるおそる声に出してみる。

「大丈夫……、ぜんぶ上手くいく」

「むせきにん~」

「そんなことない」

「そうかなぁ……」

「アレンジも五周年ライブも、上手くいくよ……」

(その先は……?)

 思っていても、言えないのだ。

 強くないから。

「今日さ……、このまま寝てもいい?」

 内緒話のような声音で聞くと、ユキは面倒くさそうに唸った。

「まだ朝だろ……」

「帰らなくていい?」

「………」

 返事の代わりに長い腕がぎゅっと、背中を抱きしめてくれる。大きな掌が背筋をゆったりとあやすように撫でて、勝手に腕枕にしていた左腕はモモの頭を抱えこんだ。

「モモ……さむい………」

「ギュッてしてあげる!」

 笑い含みの生温い吐息が頬を撫でる。

 ユキの背中に回した腕で掛布団を集めるように包み込むと、ユキは溜息のような音を残しながら眠りの湖に沈んでいった。

 

 薄く開いたユキの唇に、そっと自分の唇を寄せる。

(なんだ……、そっか………)

 一瞬だけ触れ合った皮ふの冷たい熱が離れた時に、ふと気が付いた。

 本当は冬が好きなんじゃないのかもしれない。

 きっと、明け方が好きなのだ。

 ユキが抱きしめてくれる。

 安心しきったような寝顔で、また眠りにおちてくれる。

 たったそれだけで泣き出したいほどのよろこびが湧きあがってきて、寂しさも虚しさもどこかへふっとんでゆく。

「おやすみ、ユキ……」

 カーテンの隙間から冷えた朝がぼんやりと射し込んでくる。きんと冷えた、冬の夜明けだった。 

 明け方の静かな世界の中で生きているものは誰もいない。

 モモとユキと、二人だけ。

 だからこの朝が、好きなだけなのだ。






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