カラン。
カランカラン。
グラスの中で氷が回って、モモは隣に視線を走らせた。
「疲れた?」
「え?」
「さっきからなんも飲んでないじゃん」
バーの中は薄暗いのに、ユキの手元だけがスポットライトを浴びたようにして輝いている。手の中のロックグラスの中味は少しも減っていなかった。溶け始めた氷がウィスキーの鳶色をゆったりと薄めながら、ユキの唇に吸い込まれる瞬間を今か今かと待ち構えているだけだ。
モモの指摘に、当のユキは口元で笑っただけで何も答えなかった。
(こりゃ相当疲れてるな……)
モモだってそうだから、そりゃそうか。
今日は都内のあちこちに赴いてデートをした。体験教室を三か所も巡ったのだ。
早朝からガラス工房でピアスやネックレスを作って、午後からすぐに陶器のアロマポット作り。最後にラテアートの教室でアートを習って、それでノルマはクリアである。
もちろん番組の撮影だ。残念ながら二人にはいつだって時間がない。幸いにも、モモの心臓には撮影をデートだと称せる図太さが備わっているので、それに任せて終始はしゃぎ倒してユキに絡まりに絡まったから、モモ的には正真正銘のデートだった。
そうはいっても、やっぱりどうしても二人きりの時間がほしくて、ユキさんや帰りに一杯ひっかけようか? とサラリーマン川柳みたいなセリフで口説いて、オーケーを貰えたのがついさっき。
「工房、あっつかったねー」
「そうね」
八月とはいえ、室内ロケだから汗だくになるほどの暑さではなかった。それでもバーナーを使ってガラスを炙る時はさすがに汗ばんだ。ほどよい緊張感と集中が全身を駆け巡って、ふと横を見たらユキはモモ以上に汗だくだったので、思わず笑ってしまったのだ。
固定スツールから身を乗り出してユキの左腕に頭を預けると、途端にユキの香りが強くなる。ユキはわざわざ覗き込むようにしてモモの顔を見つめてくる。
ちょっと首を傾ければそのまま唇が重なってしまうような、そんな距離だった。
「モモのそのネックレス、かわいいよ」
囁くような吐息に睫毛が揺らされて、モモはできたてのガラスのペンダントトップを指先で摘まみ上げる。
「 オレとネックレス、どっちがカワイイ?」
「くっくっく、おまえ」
「言い方に愛がこもってなーいっ!」
「ごめんごめん、モモの方が百倍かわいいよ」
ユキの左耳では、彼が笑い声をあげるたびにガラスのピアスが揺れていた。
シルバーのチェーンの先に取り付けられた、中指の爪の先くらいのサイズの、いびつで透明なガラス。早朝からガラス工房で取り組んでいた成果である。
ガラスに色付けができると説明されて、ユキは真っ先にピンクを選んだ。全体をマゼンタピンクで色付けするのではなくて、透明に数滴だけピンクを混じらせる程度のセンスの良さはさすがユキである。
グリーンは入れなくていいの? とモモが問えば、「これはモモだから」とゆったりと笑ったのが死ぬほどイケメンだった。
あの笑顔は、きっとオンエアでしっかり使われるのだろう。もちろんモモも、心のカメラで何度もシャッターを切っているから、一生忘れられない思い出の絵がまた一枚増えた。
「ピアス、気に入った?」
「これ?」
「そう。『モモ』」
「そうね。ガラスのアクセサリーって、夏らしくて涼しげでいいよね」
できあがった作品はラテアートの撮影が終わった後で受け取りに行った。ピアスに加工されたユキ作のガラス玉は、本人の手によって箱から取り出されて、そのまま工房の淡いオレンジの光に翳される。
『モモだから』と言われていたので、ピアスは自分の耳元を飾るのだとモモは期待していた。それなのに、箱から取り出されたそれはユキの耳朶へと一直線に向かってゆくではないか。
まるで自分がユキの首筋に吸い付いて絡まってゆくような気がして、ことさらドキドキした。
満足げなユキの首筋で肌に吸い付くように揺れるいびつなガラスは、緩く編み込んだ三つ編みの後れ毛とときおり絡み合って、とてもセクシーだった。
ユキの首筋はとても魅力的だ。
特に、夏。
いつもは何もせずに後ろに流しているだけの長い髪は、夏になるとよく緩く括られている。暑いから。
編み込まれている時もあれば、高い位置でポニーテールに纏められていることもある。ハチ周りを結んだハーフアップの時は毛先が緩く巻かれていて、なんというか、とてもクリーンでかわいい。
撮影以外の日も自分で結ぶことが多くて、そういう日はどことなくルーズで隙がある。ちょうど今みたいに横髪と後ろ髪が少しだけ残っているから(もちろん意図せず)、横から見た時に首筋に後れ毛が貼りついていると急にドキッとさせられる。
いつも隠されている首筋が全世界に向かって露わになるだけでも両手で顔を覆いたくなるのに、そんな色っぽい景色を見せられたら、居てもたってもいられない気分になってしまうのだ。
そもそもユキが髪を伸ばし始めたのはウケを狙ってのことではない。
ぼろアパートで同棲していた時はとにかくお金が無くて、頻繁に美容室に行くことができなかった。ショートカットはスタイルをキープするのが大変だ。普通の人なら月一でも、アイドルにもなれば月二回は通うし、トリートメントも必須。当然そんな余裕なんかなくて、仕事があまりなかったのも相俟ってユキはいつも家で作曲作業ばかりだった。
そのうちに髪が肩まで伸びて、作業する時は結ぶことが多くなった。それで、髪が長いのが意外に便利だと気付いたっぽい。
ユキの真意は知らないが、そういう理由だと、モモは勝手に思っている。
そうこうしているうちに、千といえば長髪、というイメージが定着した。ブラホワで新人賞を獲得した頃にはヘアケア関連のCMも舞い込むようになったから、切るに切れなくなってしまったのだ。
ユキといえば、長くてまっすぐな、銀色の髪。
夏のユキの髪と首筋は、本当に美しい。
だから髪の長いユキのことが、モモは大好きだ。
(――って、これは世間一般が考える千、の夏の素敵なところね……)
右目でちらりと視線を遣れば、ユキは相変わらず右手でグラスを回している。グラスの中の氷はすっかり溶けて、鳶色だったはずのウィスキーは淡い飴色に染まっていた。
「苦いの?」
「ちょっとね」
「オレにちょーだい」
ユキの右手からロックグラスを取り上げると、中身を一気に呷る。グラスの底越しに見つめ合ったユキの目尻は、グラスの中で溶けた氷よりも丸く蕩けていた。
モモだけが知っている、夏のユキ。
(今夜は独り占めしたいな……)
「ユーキ」
「うん」
「ほら頑張って、お風呂入ろ?」
「限界。いい」
いい、ってか。
内心で呆れぎみのツッコミを入れながらも、モモの口角はつり上がっていた。
案の定、ユキはそうとう疲れていた。一杯ひっかけましょうか? に付き合ってくれはしたが、サブマネの運転で自宅に到着してソファに倒れ込むまでの時間はマッハ1000といったところか。どうやらそのまま寝てしまうつもりでいるらしい。
ユキは外ロケがそれほど得意じゃない。昔は不得意を隠そうともしない態度で臨んでいたこともあったけれど、今は相方によってサービス精神旺盛に育てられてしまったから、こちらのテンションに合わせて一緒にはしゃいでくれる。だから、撮影が終わって家に帰る頃には疲れ果ててしまうことも多いのだ。
それでも最後にバーに付き合ってちゃんとデートしてくれるところなんかに、ユキの気遣いと深い愛情を感じてしまうからどうしようもない。
「よっしゃ! モモちゃんが運んじゃうよん!」
「んー、」
「あらよっと!」
車夫よろしく掛け声をあげながらダランとしたユキの身体を担ぎ上げて、寝室への引き戸は足でこじ開けて、いとも簡単にベッドにダーリンをダイブさせる。
ベッドとの距離は二十センチ。それほどの高さはないはずなのに、ユキの髪がスローモーションのように宙を舞って部屋中の空気がかき混ぜられる。鼻先をうっそうとした森林のような深い香りが通り抜けて、モモはまた、にっこりと口角を吊り上げた。
靴下とズボンを脱がせて、上半身からはシャリシャリした半透明のシャツを丁寧にはぎ取った。その下に着ていた汗ばんだTシャツも脱がせると、パンツ一丁のスーパーアイドルの出来上がりだ。
編み込んだ髪をほどいてやると、もぞもぞと芋虫のように布団の中に潜り込もうとする。
こんな姿はとてもじゃないが誰にもお見せできない。なにせ本当に芋虫みたいなので。
「モモ……」
スプリングを静かに軋ませて立ち上がると、おぼろげな声が名前を呼んだ。
「帰るなよ」
夏掛けの海におぼれた背中がそんなことを宣うので、モモは「はーい」とかわいらしいお返事だけを残して、颯爽とシャワーに向かったのだった。
夏になると、ユキの匂いはぐっと魅力的になる。
シャンプーの香りとユキの体臭が混じり合って、独特のあまやかさを醸し出すからだ。
お風呂場にずらっと並んだヘアケアのアイテムはユキが契約を結んでいるブランドのヘアラインだ。女性向けのブランドとして立ち上げられたけれど、ユキがアンバサダーに就任してからというものユニセックス向けの別ラインができて、カップルで使えるという謳い文句で売れ行きは上々だ。
もちろんモモも、お泊りする日はこれをフルラインで使わせてもらっている。ラビッターでも度々同じアイテムを使用していることを宣伝しているから、Re:valeとの契約で良かったんじゃないか? と思うほどに使用頻度は高いのだ。
大きな百合の花で口元を隠しながら森林の中で深呼吸するようで、ユキにとても似合っていた。しとやかで、クリーンで、華やか。長い髪が纏う香りとしてこの上ないほどに美しくて、ユキと抱き合う時はいつでも、モモに夢のような気分を運んでくれるのだ。
その多幸感は、夏になるともっともっと、強くなる。
ユキが汗をかいて、少し蒸れて、シャンプーと混じり合って、その香りが堂々と空気の中に垂れ流される。隙だらけのユキの首筋は、お風呂に入らない今夜はいつもよりずっと、香りが濃い。
あの匂いを心ゆくまで嗅ぎしめたかったから、ユキが風呂をキャンセルしてくれたのは、まさに、本当に、僥倖だった。そんなふうに思っていることは、ユキには絶対に知られたくないけれど……
シャワーを浴びて髪をおざなりに乾かして、モモはベッドに静かに飛び込んだ。
夏掛けに頭まで埋もれた美術品を掘り返すと、ユキは月明りに首筋を晒しながら仰向けで意識を失っていた。
(あ……、ピアス)
首元に一筋、シルバーの細いチェーンが貼りついている。緩やかにクセのついた髪に絡まって、離れて、また絡まって……、青白い光をきらきらと撒き散らしながらいびつなガラス玉が枕に向かって流れ落ちていた。
「外してなくてごめんね」
言葉ではそう謝りながら、モモの唇はまっすぐにその輝きに引き寄せられていた。
すううううううっ、と首筋を吸い込むと、深い森の奥で百合が咲き乱れている。甘くて、美しくて、香ばしい。
(あァア……さいっこぉ……)
瞼を閉じて心ゆくまで香りを堪能しながら、モモはそのままユキの首筋に縋りつく。
もっと深くユキを味わいたくて、唇に髪を食みつつ耳の後ろに鼻先を突っ込んだ。睫毛にピアスのガラスが当たって、瞼の縁がひんやりと冷える。
(いいにおい……)
『いいにおい』とか、そういう表現はまったく正しくないかもしれない。
なぜなら、この香りはもう殆どがユキの体臭だから。
シャンプーの馨しい香りとユキの汗の匂いが混じり合うと、洗い立ての髪から香るよりももっと深くて、甘い匂いがモモのすべてを包み込む。
この匂いが誰にでも愛されるのかどうかはわからない。
それでもモモは、夏のユキが好きだ。
夏じゃなくても大好きだけど、この誰にも嗅がせられないユキを胸いっぱいに吸い込める幸せは、今夜だけのものだから。
「ユキ、愛してるよ」
もう一度隙だらけの首筋に鼻先を深く突っ込んで、ユキの存在を脳髄の奥深くまでしみ込ませた―――、その時だ。
名残惜しげに離れてゆくモモの頬を、骨ばった指が引き戻す。生温い濡れた何かが唇に重なって、モモの後頭部は、気付けば枕の膨らみに押し付けられていた。
色濃く香った、ユキの匂い。
大きく息を吸ったモモの耳元をガラスの冷たい感触が撫でて、笑い含みの声が降った。
「この、変態」
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